切腹文化と議論

つぶやき

 「議論ではまとまらないが金ではまとまる」という使い古された言葉を、以前ある女性に話したら、こちらが驚くほどえらく感心していた。

 この女性、地元の自民党の事務所で選挙運動員として働いているという40歳くらいの人。

 私の仕事の依頼人であったが、自民党で働いているということから少しからかい半分で口にしたのだと思う。

 反発するかと思ったら、「さすがにうまいことをおっしゃる」と感心したというより本当に感激しているようだった。この言葉を初めて聞いたとすればまだ人生経験の浅い大した選挙運動員ではない。

 議論は双方が自分の主張を言い合って、納得するものは納得し、撤回するものは撤回して、合意点を見出すというものであった。前提を説明するような文章は書きたくないが。

 しかし現実の人間社会では、そんなことは全く成り立たないことを誰もが承知で、議論は「勝ち負け」になってしまう。
 
 勝った者は「スッとした」ということになり、敗けた者は「覚えてろ」ということになる。言い負かすことが議論だとすれば、議論は永遠に成り立たない。

 かつて日本の武家社会は切腹の文化であった。なにかあったら弁解も釈明もせず、腹を切ることが責任の取り方であった。

 切腹の文化は昭和45年の三島事件で、まだ存在していることが明らかになった。

 しかし三島の切腹は責任を取ったものではない。自分の意思を訴えるものであった。死をもって訴えれば通じるという文化も切腹にはある。

 切腹に限らず、死を覚悟した人間の思考や行動がどう社会に影響するのか考えてみる必要がある。果たして議論が成立する社会なのか。

 日本の戦争映画で、御前会議とか参謀会議とかの場面があるが、議論になっているようなことがない。強硬な軍部の意見に対して反論すれば、「この臆病者の腰抜けが」ということになって議論は終わってしまう。

 先の戦争では、軍部の意思決定において議論よりも“覚悟”や“潔さ”が重視され、合理的な戦略を持つことがなかった。撤退よりも玉砕。

 ここに日露戦争を持ち出すこともないが、203高地の攻防で乃木将軍は人海戦術しか頭になかったようだ。

 部隊はひたすら山上を目指して突撃するが、鉄砲一丁だけのほとんど無防備といっていい装備。兵隊たちはロシアの機関銃の前に屍を重ねるだけだった。

 しかし乃木は作戦を変えない。突撃すれは死ぬのは当たり前。それしか知らないようであった。

 今の日本に切腹文化は残っていないが、責任もなく議論もない社会となった。やはり死を覚悟した文化というものは建設的な社会を生まない。

 昔のアメリカ映画に「ナバロンの要塞」という娯楽作品がある。

 難攻不落のナチス要塞の破壊作戦について、司令部の偉い人と実行部隊の隊長との話し合いの中に、作戦実行後の退路についてのシーンがある。生きて帰れるような作戦ではない。

 これが議論だと思う。

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