ブログを始めて4年が過ぎた。がんの経過観察とほぼ同じ時間。がんはもう少しで一応寛解となる。
駄文を書き続けてみると、文章のあり方というようなことを考えることがある。
ブログは読み手に伝えようとするものと、日記のようなものがあることになるが、私はブログを書き始めた時、読み手に伝える文章にした。ブログとはそういうものだと思っていたからである。
しかしどうもそれは私の性分に合わない。始めてまもなく意識して文体を変えた。
それならブログに載せることもなく日記でいいではないかということになるが、年寄りの時間つぶしにはどこかに提出期限のようなものがないと真剣にならない。
「読み手を意識した文章」と「読み手を意識しない文章」
読み手を意識した文章は書きやすい。それは目的があるからだ。読者が理解しやすいように説明の順番を整えたり、誤解されないように言葉を選ぶ。
目的があることで文章の方向性が自然に決まり、文章の一貫性が支えられる。
しかし読み手を意識しない文章を書くことは結構難しい。読み手がいないのだからどんな風に書いてもいいと思うが、そういう訳にはいかない。
読み手を意識しない文章は「自己観察」を必要とする。それをいい加減にすると嘘だらけの文章になってしまう。
読み手に伝えようという目的がないのだから、事実を網羅するだけでは虚しさしか残らない。事実をどう解釈するか。それがなければ机に向かう意味がない。
ブログを書いていてイヤになることがある。なぜ書き進めないのか。
それは知らず知らずに事実を羅列しているときである。そんなものは新聞でもネットでも見れば済むこと。
「乗った馬より乗った人は面長」ではそのまま。「乗った人より馬は丸顔」として文章になる。だがこれは簡単なことではない。
自分に向かって語ろうという気はない。だが自分に語りかける文章というのもあってもいい。独白ということになるのだろう。
しかし独白は思っているようには続かないものである。自分のしらじらしさを感じてしまうし、ハムレットのように独白できるようなセリフを持ってはいない。
分かりやすい文章、シンプルな文章を書かなければと思っている。だがそれは人に伝えるためのものではない。分かりにくい文章、無駄のある文章は文章ではないと思うからだ。文章はなによりそぎ落とすことに尽きる。
文章は結論がなくても、曖昧であっても、朦朧であっても、自分の考えや気分が大事。ブログに思考は大げさだというのであれば気分でいいのである。
意味を込める必要はない。推測でもいいから自分の考えや気分を書き残すことが必要と思う。
うまい文章を書くことは不可能。何を感じているかということしか書けない。
何も感じることが無くなったら終わりということである。



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