今年ももうじき桜が満開となる。心待ちにしているというより、なんかうっとうしいな、という気持ちの方が強い。「のどけからまし」とはそういうことなのかなと思う。
70代最後の桜となるが、なにか感慨があるわけではない。
森永卓郎さんは2023年11月にがんが見つかり、12月にそれを公表したが、がんが見つかった時医者から「来年の桜は見られない」と言われたという。
しかし翌年桜の満開時に、「桜、見てやったぜ!」と狭山湖畔で家族とお花見を楽しんだ姿を投稿している。でもお花見はこの年だけで、2025年の桜は見ることができなかった。
今思うと、ガン公表後もずいぶん長く元気に活躍されていたと思うが、がんが見つかって1年とちょっとで亡くなっている。やはりステージ4のがんはきつい。67歳の死は早すぎる。
「来年の桜は見られない」という余命宣告は最長で1年。森永さんの場合は半年くらいの期間を意味したことになる。でもそれ以上生きた。余命宣告としてふさわしい表現なのか、配慮のない残酷な表現なのか。
外国にはこれと似たような余命を伝える言葉はあるのだろうかとネットで調べてみると、「もう次の春を見ることはできないかもしれない」という言い方で存在している。
英語、フランス語、ドイツ語にほぼ共通の言い方であるから、他のヨーロッパ各国でも使われている言葉と思われる。中国語でも同じような表現がある。
英語では「あなたの冬はもう多く残っていない」という言い方もあるらしい。
春は「再生」「新しい始まり」、冬は「人生の終盤」
どの言語でも「次の春を迎えられない」という表現で、「桜を見られない」というように特定の花などを指した表現はないようだ。日本の春は桜が代表する。
「来年の桜を見られない」というのは、桜は毎年何事もなかったように咲き、人の命も何事もなければ桜と同じように新しい季節を迎えるものだ。それが人の命だけ途絶えるということを意味する。
自分がいなくなっても、何事もなかったかのように桜は華やかに咲く。これは寂しいことだ。
やはりこれは残酷な言葉である。


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