新聞を取りに行ったら今日も雨。もう何日降っているのだろうか。
このところ「淡々とした生き方」ということを考えている。
淡々とした人生。淡々と語る。淡々とした文章。いずれでも同じである。
この言葉は、一喜一憂せず、感情の起伏にまかせることなく内面の平静を保ちながら一定のリズムで生きる事、という意味に理解されることになっている。
いい意味として使う場合もあるし、冷淡という意味合いもあることからよくない言葉として使われることもある。
「これからは淡々として生きていこう」と、個人の意思を表す言葉として使うこともあるだろうが、一般的には第三者が特定の人の生き方などを評価する時に使う。
最近では「人生の境地」を言い表す言葉になっているようにも思える。どちらかと言えばいい言葉として使われることが多い。
この言葉は誉め言葉なのだろうか。
「淡々とした生き方」が先に書いた意味とすれば、「あの人は淡々と生きている」と言う第三者の言葉は、その人の何を評価したと言うのだろうか。
人は毎日感情に左右されて生きている。感情の起伏を表に出さないということは人間にとって簡単なことではない。
簡単なことではないことをしているから、「あの人は淡々と生きている」という言葉で褒めたということなのだろうか。
「淡々と生きている」という言葉は、どうもそれ以上の深い意味を持った言葉とは思えない。
そうであるならそれは「淡々」ではなく「坦々」である。
淡という字は水に炎。落語家のマクラのようなことは言いたくないが、これをどう理解するか。実に示唆的な字ではないか。
淡々とした生き方とはすべてを受け入れることである。執着しないということと同意義ではない。
時によっては貧しさに耐え、豊かになれば豊かさを活かし、子供ができれば子育てを楽しみ、新しい知識や経験を得ればそれを人生に取り入れ、一凛の花を慈しみ、病を発症すれば他人に不安を語ることなく耐える。
これが淡々とした生き方ではないか。一喜一憂しながらひとつひとつ乗り越えていく。感情の起伏のままに情熱をもって生きることである。
ただ感情の起伏のままに生きるということは、感情の起伏を人生のせいや他人のせいにしないことである。そこが淡々としない生き方と違うことになる。
淡という字が水と炎でできているのはこの事ではないだろうか。
だから淡々と生きることは誰にでもできることではない。かなりの人格者でなければできる境地ではない。
「淡々とした生き方」は冷静、無執着ということではない。情熱を持った生き方である。ただ情熱を内に秘める。
「淡々とした生き方」という言葉。カッコいい言葉であり文責もないような言葉だから使いたくなるが、ここまで考えてきて誤用されているのではないかと思う。


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