若い頃、「人間如何に生きるべきか」というテーマは、はしかのように身の回りにあったが、「自分はどう生きたいのか」という問いを、自分に掛けたことはなかった。
「如何に生きるか」と「どう生きたいのか」とは全く違う気がする。
昨日の午後、暇つぶしにテレビをつけると、「大石静 最後の講義」という番組が映った。NHKEテレであるが再放送のようだ。
「今日、もし人生最後の日なら、何を伝えたいか」という事がコンセプトの番組のようで、2020年頃から各界の有名人が登場して放送されていたらしい。
大石静という名、どこかで聞いたような気もするが知っている人ではない。かなり著名な脚本家のようである。
何十人かの受講者を前に大石さんが人生を語る。学生も社会人もいて、大学での講義ではないようだ。
話の中に大河ドラマ「光る君へ」の話が出たが、このドラマの脚本は大石さんが書いたものであった。観たことはなかったが、紫式部を主人公にしたドラマということは知っている。
「自分には実の母親と養母がいたが、養母と父は関係があったと思っている」
「安保闘争のとき機動隊の学生に対する恐ろしいまでの残虐行為を目の当たりにしたが、警察が発表した負傷者は警察官710名、学生47名であった。権力は嘘をつく」
「人間には多面性がある。既成の価値観の向こう側を見る心が必要。人生は欲望を持つことも大事」
特に「何か言わなくては」というような力みはなく、今の時代の知識人の傾向なのか、淡々と今までの苦労とか努力、それに私的なことも含めて聴く人達に語り掛けるような口調であった。
話の前後を忘れたが、「自分はどう生きたいのか」という大石さんの言葉に引っかかるものがあった。
「人間如何に生きるべきか」という問いの答えはなかなか難しいとしても、「自分はどう生きたいのか」という問いには、簡単に答えが出せるはずである。
生きているのだから、自分がどう生きたいかくらいはしっかり決まっていて当たり前だと思うのである
だが「自分はどう生きたいのか」と言う言葉を聞いて引っかかるものがあったというのは、私はこの言葉が苦手であった。
「自分はどう生きたいのか」判らないまま生きてしまった。この歳になって、「自分はどう生きたかったのか」と問い直しても何も思い浮かぶことがない。
「自分はどう生きたいのか」を自覚することもなく、人は生きてしまっていいのだろうか。そんなことを思う。
もし私に「最後の講義」の出演依頼があったらどうしようか。
「自分はどう生きたいのか」分かっていなくても、人は生きていける。心配することもない。こんなところだろうか。



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