やはり何かを創る生き方というものに憧れる。
人生には意味がないから、なにかを創造するような生き方でなければまったく人生は意味がないものになってしまう、という話を耳にすると、なにか咎められたような気持ちになる。
何かを創らない人生はなんの意味もないのか、漫然と生きているだけでは生きているとは言えないのか。
この歳になって考えてみると、創造性のない人生はやはりなんの価値もないものだと思う。
なんの価値もない人生は生きる意味がないということではない。価値がなくても人は意味のない人生を生きていくことができる。
小椋佳さんは東大を出て銀行マンになったが、仕事の傍ら作詞・作曲をして、日本の歌謡界において全く新しい世界を創り出した。
小掠さんも人生には意味がないから創作によって自分が生きた証しをを残したい、というようなことを述べている。銀行員としての仕事は創造性のないものなのであろう。
小椋さんに「二足の草鞋」という印象を受けないのは、意味のない人生に意味を持たそうとしたからだろうか。
やはり意味のない人生に、生きることの意味を人に感じさせる創造という作業は素晴らしいものである。
年老いて自分の人生をいやがうえにも考える。曲がりなりにも人並の生活をしてきた。人並のレベルを下げれば人並み以上だったかもかもしれない。
しかし充たされるものがない。歩いてきた道に私が残した物が一つもない。「そこにはただ風が吹いているだけ」なのだ。
創造的な生き方というものは、自分の価値を自分で創ることである。
なんの権威にも頼らず、徒党を組むこともなく、媚びも売らず。
生きる立場が国家から与えられた資格によって成り立つというものであれば、自分の価値を自分で創ったことにはならない。
資格は試験の難易度で権威を作ろうとするが、 難易度は創造性や人格ではなく、国の制度に対する理解度である。
結果として創造性よりも「資格を取ったかどうか」だけが価値基準になる。司法試験は創造性を持つ受験者は受からないとされている。
人生は自分の創造性で生きなければ歳をとって情けない思いをする。
制度に寄りかかって生きた人の老いは「虚しい」ものになるが、創造性で生きた人の老いは「深み」になる。
自分が生きる立場を国の資格に求めてしまった。誰のせいでもない。自分がしたことである。
歳を取るということは、自分の程度を知ることであることが、歳をとってみるとよく分かる。
実は毎日呆然と暮らしている。どう考えても呆然しかない。
熊本に余震も台風も来ませんように。


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