チボー家の人々に憧れた

つぶやき

 十代の後半の頃と思うが、「チボー家の人々」という題名の本を知った。
 多分夜間高校生の時、文学好きな同級生から聞いたのだと思う。

 題名に惹かれ読まなくてはと思い、連作の全巻をまとめて買った記憶があるが、最後まで読むこともなくやめてしまった。多分第1巻だったと思う。こういうのを一巻の終わりと言うのだろうか。

 やめた理由などあるはずがない。要は面倒くさそうな本だったということである。本を面白く読むか、飽きてしまうかは読む人の能力次第ということになる。以来「チボー家の人々」を知っているという憧れだけが残った。

 同じく同じ頃、「三太郎の日記」という題名に惹かれて本を買い、何度か読み始めてみたが、これも最初の部分から先に読み進むことなくやめてしまった。

 この本にも、「三太郎の日記」を知っているという憧れがいつまでも残った。

 私の読書は頓挫の歴史。元々読書好きではない。読まなくてはいけないという本はみんな難しかった。本を読んでいても退屈で、残りページの厚さしか興味がなかった。

 「カラマーゾフの兄弟」は、中公の世界文学全集から始まって、訳者の違う文庫本を両方買い揃えたが、登場人物の片仮名の名前が何度読んでも覚えられず、愛読書ではなく愛藏書となった。
 今でも読まなくてはいけないと、脅迫されたような気持ちになる。

 同じ頃、「金色夜叉」を読んだことがある。母が、「来年の今月今夜のこの月を、オレの涙で曇らせてみせる」と言って、「金色夜叉」という小説の面白さを話してくれたことがきっかけだったのかもしれない。

 この小説は世間で言う大衆小説。ラジオやテレビのない時代、通俗的な話を題材にした「読本」というものが流行ったらしい。

 所詮は大衆文学と、芸術文学の世界から馬鹿にされたらしいが、実に文章が美しく、リズミカルで飽きることなく最後まで一気に読んだ。日本語とはこんなに素晴らしいものであるかと思ったものである。

 私には大衆小説がちょうどいい。

 そんなことを思いながら、今夜も地震が来ませんように。

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