景勝地は作るもの

つぶやき

 ひねくれた物の見方ということになるかもしれないが、このところ「景勝地作り」がめったやたらとされているような気がする。

 景勝地とは古い言い方だから、現在は行楽地と言った方がいいかもしれないが、行楽地ではちょっと軽い。

  芝桜だ、バラだ、チューリップだ、ラベンダーだ、コキアだ、コスモスだと、なんでもかんでも大量に植えれば景勝地になると考えているのではないかと思う。

 それにどこもかしこも入場料が高い。 千円、二千円。 「自然を楽しむのに、こんなに払うのか」と腹立たしくなる。
 
 もちろん、手入れにはお金がかかる。 管理する人の苦労もある。 それは分かる。 だがどうも最近の景勝地作りには、「自然を借りて商売をする」という胡散臭さを感じる。

 もともと景勝地というのは、そこに暮らす人たちが長い時間をかけて育てた景色である場合もあるし、人が気がつかないうちに景勝地になっていたというものである。

 誰かが「景勝地にしよう」と思って作ったわけではなく、気がつけば人が集まる場所になっていた。そういうものである。

 ところが今は逆。まず「景勝地を作る」と決めて、そこに花を植え、木を並べ、写真映えする角度を計算する。自然が主役ではなく、“景勝地という商品”が主役になっている。

 そんなところを歩いても、そりゃあきれいな花がたくさん咲いていればきれいだと思うが、それだけのことで、かえってやりすぎの風景に嫌気がさす。

 自然は本来無料で、こちらの都合とは関係なく勝手に美しく、定型を持たないものである。その気ままさに人は安らぎを得る。

 作られた景勝地になにか違和感を感じるのは、カップラーメンを食べた時に似ている。まずくはないから食べてしまうが、それからしばらくは食べたいとは思わなくなる。
 
 作られた景勝地に自然を感じようというのが間違っている。
 作られた景勝地は自然ではなく、見世物なのだ。

 私は作られた景勝地よりも、ふとした道端の花のほうが好きだ、などとキザなことは言う気はないが、どこもかしこも景勝・景勝と言うと、フンと鼻で笑いたくなる。

 10年ほど前、私の古稀の祝いの帰りに新宿御苑に寄ろうとしたが、入場料が500円。

 冗談じゃない、新宿御苑は小学生の頃から私の好きな場所。ほんの前まで50円くらいだった。入らずに帰ることにした。

 先日家内が小学校時代の同級生4人と上野で会食したが、公園内の東照宮に寄ったら牡丹園の入場料が1000円。

 1000円取るほどの牡丹園ではない。値上げムードに便乗している。
 花というものは、財布と心に負担をかけて見るものではない。

 ま、しかし、どこへ行っても、と言ってもそんなに景勝地に行っているわけではないが、どこに行っても私たちのような夫婦に出会う。

 近くて便利で設備の整っている「自然」はまやかしでも人生の思い出になるのだ。

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