「どうして歌謡曲は水商売の女性を歌った歌が多いのだろうかといつも思う…」
とこの稿を書き始めたのだが、我ながらイヤな文章を書いていることに気がついた。
ブログに起承転結など要らない。そんな文章はつまらない。
「アジサイが咲きました。おひるはバゲットにママレードをぬって食べました」という文章でなければブログを書いている意味がない。
気をつけてはいるのだが、意識しないと説明の文章になってしまう。
昭和の歌謡曲には水商売の女性をテーマにした歌が多いのである。水商売に身を沈めなければ生きていけない女性が多かったから。
水商売に身を沈めた女性を歌った歌には二つの傾向がある。ひとつは、水商売に身を沈めた女性の心情を歌ったもの。これには名曲が多い。
他は、男が勝手に水商売の女性の心情を歌ったもの。
男が勝手に水商売の女性を歌ったものがひどい。この歌は男性歌手が歌うとは限らず女性が歌う場合もある。芸者ワルツ、松の木小唄などがそうだが、この場合は男が歌う歌より救いようもなくひどく下品である。
男が勝手に水商売の女性を歌ったものには、女のみち、涙の操、そんな優子に惚れました、むかしの名前で出ています。あまり思い出したくないが、たくさんある。
なんとか兄弟、なんとかキングス、もと相撲取り。彼らを聞くと日本人の音楽に対する感性に絶望する。歌っている人間がとてつもなく下品である。下品と言う言葉が続くがそれしかない。
「絶望するのはあんたの勝手、独りよがりだ」と批判する輩が必ずいるが、ええカッコしているだけで中身は空っぽ。
独善には確かな感性というものがあることが分かっていない。
このところ、「ひとつや ふたつじゃないの ふるきずは…」という歌詞が頭を浮かぶ。都はるみさんが歌った「大阪しぐれ」という歌であった。題名が覚えられないが、歌詞は頭に残る。
ひとつやふたつじゃない古傷を持つ女性、どんな女性なのか。
「泣いてすがればネオンが ネオンがしみる」「こんなわたしで いいならあげる なにもかも」「つくし足りない わたしが悪い」
この女性が水商売なのかどうかははっきりしないが、「ネオンがしみる」のであるからそうかもしれない。
もしホステスとすれば、女性の心情を歌った歌として名曲とされるべき歌である。
しかし歌詞を改めて読んでみると、歌の筋としては「何もそこまで」という気になる。
この歌は女性の心情を歌ったものではなく、「男が勝手に水商売の女性を歌った歌」を見破られないようにカムフラージュした歌である。作家さんも下品と言われたくないからであろう。
はるみさんには申し訳ないが、あんな歌が流行ってはいけない。作詞家のクラブの飲み代を聴かされていただけのことである。
昭和歌謡は歌謡曲の全盛時代。しかし同時に心の貧しさを歌った時代でもあった。
女性の悲しみを、歌謡曲という商品にしたからである。
昭和歌謡は、戦後社会の輝かしい遺産と言って間違いないが、ああいう歌をはやらしてしまったということでは負の遺産でもある。
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