歴史的にも大きな功績や偉大な芸術を成し遂げた人が晩年、結局人生は意味のないものだった、というようなことを言い残すことが多い。
「人生は取るに足らない夢だ。いつかは消え去ってしまう」ナポレオン
「私の人生は失敗に過ぎなかった。私に残されたなすべきことは、私が消える前に、すべての作品を破壊することだ」クロード・モネ
「絵はわれわれが信じていたようなものではなかった。(中略)誰にも何の役にも立たないではないか。絵、展覧会─それがいったい何になる?」ピカソ
ネットにあった記述である。意図をもって抽出した言葉と思われるから前後の脈絡は判らない。ピカソまでそんなことを言ったのだろうか。
日本においては豊臣秀吉の、「露と落ち 露と消えにしえに我が身かな 浪速のことも夢のまた夢」がなんと言っても心に残る。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という芭蕉の句は、いろいろ解釈は分かれるようであるが、やはり人生の終焉を感じた芭蕉の最後の言葉としていいのだろう。結局枯野をかけめぐる夢でしかなかった、と。
「生きた証し」という言葉をテレビの時代劇で耳にした。少々この言葉が気になっている。
生きた証しが欲しい。生きた証しを残したい、と人は思うらしい。
生きた「証し」と言うのだから、第三者に生きたことを証明したい、ということになる。そうであるなら戸籍謄本を取り寄せれば済むことではないか。
しかしそうではないようだ。人は自分のためにしか物事を見ない、という考えを通則とすれば、生きた証しの意味が見えてくる。
生きた証しは、役に立つためにあるのではなく、自分が生きてきた時間は無駄ではなかったと思いたいためにある。
人は自分の人生を肯定できる材料があると満足して生きられる。
生きた証しは結局自分の弱さを示しているものでもある。人生物事を成し遂げた人は己の生きた証しを否定している。究極に迫るということはそういうことなのか。凡人の理解できるようなことではない。
生きた証しがそういうことであるなら、私にも生きた証しはあるのだろうか。自分が生きた時間をできたら無駄とは思いたくない。
無いんだなあ、これが。



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