「委細面談 住み込み可」という文言を思い出す。
昭和29年代から30年代にかけて、私がまだ10歳にもならにない頃、よく電柱などに貼られていた従業員募集のチラシに書かれていたもの。
子供の頭では「委細面談」という言葉の意味が分からなかった。当時は読めなかったもしれない。
昔、商店や飲食店などで働く従業員は、そのがほとんどが住み込みであった。
当時の住み込みとは、店が用意した寮とかアパートに住むということではなく、その店の住宅部分に店主の家族と一緒に住むことだった
従業員を雇い入れるために家の増築などする場合もあるが、その部分はたいていバラックのような粗末なものだった。
働く人も貸家などを借りて生活していくことが困難な時代であったから、住み込みで働けることは、住まいの確保ができた、ということになった。
住み込みで働くといういうことは、今でこそ働けば当然のこととして賃金が支払われるが、当時はそういうことではない。
つまり給料は支払われない。給料というより小遣いになる。盆や暮れにわずかなお金をもらう。働いている者はその金で下着を買ったり、たまには映画でも見に行くということになる。昔の丁稚奉公のようなことが残っていたようだ。
不動産屋を始めた頃、近所にあるそば屋の亭主から財産調査を頼まれたことがある。このそば屋は昭和20年代から商売を始めていた。
そばやうどんを売ってこんなに資産が持てるものかとびっくりしたが、そのことについては以前ブログに書いたことがある。
このそば屋の亭主は、従業員を確保するために出身地である新潟の中学校を訪ねていた。そこで少し成長の遅い子とか、中学を出て働くことになっている貧しい家庭の子を雇い入れた。
あの時代、ほとんど人件費を払わずに商売ができたのである。このそば屋の亭主はかなりな資産家となったが、人件費を払わないことがその大きな要因であったのは間違いない。
叔母は昭和20年代の終わりころから喫茶店を経営していたが、4人ほどいた女性店員はみな住み込みであった。
もちろん給料などは払わない。あの時代シーズンになるとクリスマスケーキが飛ぶように売れたが、儲かっても給料を払うという事はなかったようだ。
叔母の喫茶店も、東京の下町から高田馬場に移転してから思わしくなくなってしまった。
私が小学校の6年生くらいの頃のことだと思うが、働いていた女性がやめ、しばらくしてから叔母に給料を払ってほしいと訪ねて来たことがある。
私はそのやり取りを一部始終聞いていた。
払ってくれなければ労働基準局に訴えます、というような話もあった。
叔母は「訴えるなら訴えなさい。三度三度の食事をして、寝るところもあって、なんで給料を支払わなければいけいないのか」というようなことを言ったと思う。
住み込みとは、三度三度の飯が食べられて、雨露をしのげる、という事なのである。叔母の頭にはそれしかない。
私は最後までそのやり取りを聞いてはいなかったのだと思う。話を終えて店から駅方向に向かうその女性と道の途中ですれ違った記憶があるからである。
お金に困っていたのだと思う。くらい沈んだ顔をして歩いていた。貧しい時代だったのだ。
叔母の店で働いていた女性たちはその後どうしたのだろうかと思うことがある。



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