このところ検察の不祥事が続き検察批判が高まっている、と言っていいだろうか。
ネットにはここ2、3年の検察の不祥事について一覧表が掲載されていた。呆れるほどの内容と数である。
ボケ止めと、なにより便通のために書いているブログだが、検察や警察に関してはときどき感情的に批判の文章を書くことがある。
「大海に小石を投じる」という諺より意味のないことは判っているし、共感を得ようという気はないが、権力を考えることは人生を考えることだと思うのである。
人生とは大小、強弱ということはあっても、なにかしらの権力関係の中にある。
人生自由に生きるということは、権力関係から解放されることである。
検察・警察というところが嫌いである。いずれも公益の代表者。好きだ嫌いだと言うところではないことは判っている。
しかし嫌いである。社会正義のために戦っている。その通りだと思うが、人間を捕まえ拘束できるという権力が、正義のために戦うという理念を忘れさせ、人間の醜悪な一面を露呈させてしまうことがあることに憂慮する必要がある。
暴言・暴力による違法な取り調べ。被疑者女性との肉体関係。女性に対する性的暴行。証拠の改ざんでっちあげ。個々の問題を取り上げる気はないが、こういう問題は権力関係があるところどこにでもある。
検察の不祥事において問うべきことは不祥事だけではなく、検察はなぜ自分の過ちを認め謝罪しないのかということである。
部下である女性検事への性的暴行によって逮捕された大阪地検検事正であった北川健太郎は初公判で事実を認めたが、翌日撤回し、無罪の主張に転じた。
大川原化工機冤罪事件で、検察の起訴取り消し後、検察の事務レベルの役職者は謝罪に現れたが、検察を代表する検事総長、次長検事が謝罪することはなかった。
袴田事件再審の無罪判決には、「真犯人は袴田さんだと思うが、袴田さんのため控訴を断念した」という長く後世に語り継がれであろう検事総長の恥というべき談話が発表された。
なぜ検察は自らの非を認めないのか。
「検察が過ちを認めては検察というところは成り立たない」という連綿と続く文化があるのだと思う。「検察は常に正しい」という妄想の上に検察は存在している。
最近アメリカの野球を見ていて、ストライクがビデオ判定されることを知った。
審判は権力。審判の判定は絶対。そうしなければ野球が成り立たない。
ビデオ判定の時代。審判のストライクコールが覆されることがある。
審判の気持はどういうものなのか。「オレがここにいる必要はない」と思っているはずである。


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