以前、近所の年配の知人夫婦を誘って本栖湖にドライブしたとき、知人がビデオを買ったらしく、それを持ってきていろいろ撮影をした。
帰ってからそのビデオに音楽をつけることになり、私と知人それぞれこの映像にふさわしいと思う曲を選んで、我が家で視聴会となった。
映像は本栖湖の静かな湖面と周辺の木々。富士は雲に隠れて見えなかったが、いいアングルでとてもよく撮影されていた。
私はマーラーのアダージェット。知人は私の知らな軽音楽のようなものだった。
同じ画面が2つの曲で印象が全く違う。しかし知人が選曲した曲では映像が音楽に敗けてしまう。
そのことを知人に言うと、「映像が音楽に敗けるという言葉を初めて聞きました」と少し感動したように私に答えた。
知人はクラシック音楽を全く知らない人だから、アダージェットの良さは分からなかったようだ。
このところ歌謡曲ではなく、ドボルザークのチェロ協奏曲が頭の中で鳴っている。もちろん第2楽章のあの部分。
中学1年のときはじめて「新世界」を聞いてクラシック音楽のとりこになり、それからベートーヴェンやブラームスを聴くようになって、どの曲にもうちのめされるような感動を味わった。
ドボルザークのチェロ協奏曲を聴いたのは中学2年生のとき。
兄が中学を出て働き始め、最初のボーナスか暮れのボーナスかで、初めて買ったレコードがこの曲だった。
当時4畳半のアパート暮らしにステレオなどあるはずがなく、近所の喫茶店の経営者に頼んで聴かせてもらっていた。ベートーヴェンやブラームスとはまた違った風景があった。
61歳で膵がんで亡くなった学生時代の友人は、この協奏曲が好きだと言っていた。だが名曲喫茶でこの曲が流れていた時、彼は何の曲か判らなかった。
「ドボルザークのチェロ協奏曲が好きだ」ということを口にすることが、音楽をより深く知っているということを示すことになると、どこかで覚えたようなのだ。
亡くなった人のことを言うものではないが、イヤな人間ではなかったが、そういう部分を持っていた人だった。
音楽は知識ではない。音楽を聴いて感動したかどうか。それだけの事である。
この協奏曲のことを「ドボコン」と言う。ドボコンは青春の音楽であり、人生黄昏の音楽でもある。
シンフォニーもコンチェルトも、終楽章は「苦悩から歓喜」でなくていい。この歳になると高揚はもう要らないのだ。終楽章は全部第2楽章でいい。


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