耳に挟んだ赤えんぴつ

つぶやき

 競馬や競輪などに全く興味も関心もない。子供の頃から「賭け事だけはしてくれるな」と母親から聞かされていたがその影響かもしれない。麻雀もやったことはないから、人間としての社会性に欠けるということになるのかもしれない。

 父がサイコロか花札ばくちかをやって母もずいぶん苦労したらしい。疎開先は漁師町であったが、漁師町というところは結構博打が盛んなところ。漁に出れないときの暇つぶしや、「板子一枚下は地獄」という仕事からのことなのか。

 父も誘われて熱中してしまったらしく、母に言わせれば家中の物が博打の形に取られたという。こういう話はあまり子供に聞かせるものではない。

 昨日、競馬を見た。見たくて見たわけではなく、スィッチを入れたら競馬中継をやっていた。ジャパンカップというレースが開始される直前で、馬が入場というところだったが、馬というのはなかなか美しい。

 兄が競馬好きであったが、言い訳の意味もあったのか、賭ける事より馬の疾走する姿が美しいという。
 競馬の実況放送を録音したレコードを買って聞いていた。「長い下り坂、ゆっくり下らなければなりません」などというアナウンサーの言葉に感動していた。

 どの馬が勝ったのか、レース自体がどうだったのかということは全く分からないが、スタート早々騎手が落馬した馬があった。その馬は最後の何頭かの競り合いのときまで懸命に走っていた。馬の疾走には悲しさがある。

 しかしものすごい観衆。こんなに競馬は人気があるとは知らなかった。優勝した馬上の騎手が観衆の声援にこたえて手を振り、花道とも言うべきコースを引き上げる姿はなかなかカッコいい。実際に現地で見たら感動するかもしれない。

 漁師町の疎開先から東京の下町に移り住んだが、その頃大通りに面したところは商店街だがその裏はすぐ原っぱというところが多かった。

 その原っぱは子供たちの遊びであったが、あの当時よくサーカスがテントを張って興行していた。キグレとかキノシタとか1か月くらいはしてのだろうか。会場から聞こえてくるスピーカーから「美しき天然」という曲を覚えた。しかし今思うと馬も象もいた。大変な公演だったのだなとよく思い出す。

 それからしばらくしてその空き地に場外馬券売り場というのができた。昭和30年頃ではないだろうか。そのためそれ以後サーカスは来なくなった。

 競馬というのは日曜日にするものなのか、その馬券売り場は普段の日は子供たちにとって格好の遊び場になった。
 事務所の建物の前はアーケードのように屋根があるから雨の日でも遊べる。鉄柵をよじ登って入るのだが、一度も怒られたことがなかった。

 今日の新聞の川柳に「石や缶何も買わずに遊んでた」というのがあったが、その通りの光景である。

 今はどうなっているのかとネットで見てみると「ウインズ」という名称になって立派なビルが建っている。建物内の写真も掲載されていたが、空港の案内所のように実に綺麗な施設である。

 昔の馬券売り場は赤鉛筆と競馬新聞であった。オッサンがミカン箱かなんかに上ってしゃべっていたが、あれはレースの予想だったらしい。あの人たちは何で稼いでいたのだろうか。新聞を売っていたのか。予想が当たったら手数料を取っていたのか。

 当時テレビはまだ普及していなかったと思うが、レースはラジオで聞いていた。
 競馬が終われば馬券が散乱。馬券売り場の前に観音様があって、その横丁に小さな飲み屋が軒を連ねていた。そこを通ると昼間から酒臭かった。

 テレビの競馬中継に若い女性出ている。他の出演者と一緒になってあのレースはどうのこうのと言っている。

 あの赤鉛筆の時代から競馬は変わったのだと知らされた。

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