言葉というものは相手が聞く耳を持たなければなんの意味もない。
昨日の「大川原化工機」冤罪事件に関する検察・警察の謝罪を見てそう思う。彼らは最初から最後まで冤罪被害者の話を聞いていない。
違法捜査の過程でがんで亡くなった元顧問相嶋静夫さんの遺族が出された要望書に感銘を受ける。彼らが要望書に応えることはまずないだろう。
公開された謝罪の場面で、鎌田徹郎副総監が島田さんの名前を「ヤマモトさま」と呼び間違えるシーンがあったらしい。読み違えではなく、謝罪する相手すら分かっていないということである。
同じく謝罪した森博英公安部長も、社名を「大川原化工機工業」と誤った。
どういうことなのかと考えることもない。そういう程度なのである。
冤罪でさんざん苦しめられた被害者の言葉を検察達は聞く耳を持たない。
それでは被害者が救われないではないか。被害者はいつも救われないのである。
実は私は人の話に聞く耳を持つ人間ではない。友達がいない原因はそれだと思う。
こういうとエラそうになるが、聞く耳を持たなければならないような人にあまり会ったことがない。
どうしたってちょっと会話をしただけで、この人の話は聞くべきか、聞くに足りない話かが判るものである。
聞くべきかなと思う話も、なるべくできたら近寄らないほうがいいということもある。
本当に聞くべき話をする人はなかなか語らないものである。
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