親が生きている時の親孝行

つぶやき

 「親孝行したいときには親はなし」ということわざはずいぶんと耳にしたが、ことわざと思っていたら江戸時代の川柳という説もある。この後に「さりとて墓に布団は着せられず」と続くらしい。

 ことわざとすると、「親孝行というものは親がまだ生きているうちにするものだ」という教訓になる。

 川柳だとすると、「親孝行というものは、親が死んでからしたくなるものである」という皮肉めいたものになる。

 ことわざであっても川柳であっても、親が死ぬとなぜ親孝行をしたくなるのか。少し気になる。

 今までやらなかった、あるいはやりたくなかった親孝行を、親が死ぬとしたくなるのは、「可哀そうな親だったなあ」、とか、「もっと何かしてあげればよかったな」と、同情なり後悔があるからではないだろうか。

 なんの気遣いもしてあげなかったと思えば、人は少しは自分を責めることになる。親孝行がしたいのではなく、自分を後悔や嫌な思い出から楽にしたいということかもしれない。

 このところ母や姉や世話になった叔母夫婦のことをしきりに思い出す。なんの気遣いも、なんの恩返しもしないうちにみんな死んでしまった。やってやれることはたくさんあったといまさら思う。

 姉のことは何度か書いたが死に向かったときは、ガンが全身に転移し、糖尿病は最悪の結果となっていた。
 ケアハウスに移って見舞いに行ったが、やせ我慢ではなく本当に死を受け入れていた。
 これまでどれほどの苦痛と恐怖を味わったことだろうかと思っていたが、思っていたより平静であった。

 平静と言うより幸せそうに見えたのである。それは次男の介護のことであった。姉は子供たちから世間的にいい思いをさせてもらったことはない。優等生というような人に褒められるような子供達ではなかったからである。

 その子供が実にかいがいしく親の面倒を見ていた。はた目にもよく判る。
 ベッドを代える時、以前の半分になってしまった姉の身体を息子が軽々と大事そうに抱きあげた。姉の顔は初めて恋人に身をまかせるような女性の表情をして息子に見とれていた。

 姉はそれで十分だったようだ。今まであまりよく言われていない息子であったが、こんなに自分を大事にしてくれる息子を持った。それがとてつもなく幸せなことに感じていたようだ。死を恐れさせない親孝行。究極の親孝行かもしれない。

 母親に心配ばかりかけて来た甥であるが、母親が死ぬ直前にいい親孝行ができたのだな、とあのケアハウスでの姿をよく思い出す。親孝行はお金ではないようだ。

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