今朝の新聞の「自覚なき差別」という見出しに少々気を取られた。以前から関心のある言葉である。
新聞の内容は、特別支援学校の卒業生を大学進学率の分母に加えていなかった、ということについての記事。
文科大臣が頭を下げていたが、「彼らを進学率に加えることなど思いもしなかった。申し訳ない」ということらしい。
乙武洋匡氏はXで「障害者は『いないこと』にされていました。(中略) 馬鹿にするな」と投稿したようだ。
まあしかし「自覚なき差別」が進学率のことで、障害者になにか被害が生じたということでなかったのはよかったが、こんなことで(分母という意味で)文科大臣が頭を下げるというのも、ずいぶん時代が変わったものである。
「自覚なき差別」は今まで当然と思っていたことが、時代の変化や人々の考えの変化によって差別とされるもの。
部落問題、ハンセン氏病の隔離、男女差別、同性愛の差別、婚外子の相続分など、そうして当然と思っていたことが、時間の経過と共に当然のことではなくなった。
このところ、この辺のことについて世の中が非常にナイーブになっている。
「LGBTQの人たちにも寛容な社会になればいいよね」という言葉が差別語になるか、という問いがある。
昔は結婚した人を見ると「赤ちゃんはまだ?」などと言ったものである。もちろん悪意などはないが、現代では最悪な言葉だそうである。
しかし「LGBTQの人たちにも寛容な社会になればいいよね」と言う言葉が差別語になる。そこまで考えてしゃべらないと差別になってしまう。
いろいろ考えながら人と話をしなければならなくなったが、幸いにも高齢になると誰とも話さない日が多い。
先日ミヤネ屋に田中真紀子氏が出演していて、高市首相などについていつものように言いたいことを言っていた。やはり下品な人である。ミヤネ屋は話題作りによく田中氏を出演させるが、もうやめた方がいい。
田中さんは父角栄の相続に際して、妾が生んだ子に相続権などあるはずがない、とした人である。この人は自覚して差別していた。
差別には「自覚ある差別」も当然にある。ひところの朝鮮人に対する差別というのはこれではないか。
自覚した差別は差別ではなく憎しみである。田中さんももうお歳。寛容になられたほうがよろしい。穏やかな顔をしていればいい人に見える。



コメント