絹とナイロン

つぶやき

 孫がリヨンに留学する話から、少し絹織物の知識を仕入れようと思い立ったが、つまらないことに行き会ってしまった。

 無理に行き会う事もないのだが、「絹の靴下」という夏木マリさんが歌った歌は、絹の歴史に少し関係がある。

 この歌は多分どこかの安キャバレーのホステスが、どこかのおぼっちゃまに惚れられて結婚したが、上流の生活は自分には合わない、という歌である。

 歌詞の内容はかなりきわどい。当時としては衝撃的であったはずである。
 歌詞はきわどくても衝撃的でも構わないが、「絹の靴下」という曲名がそもそもおかしい。

 「絹の靴下」ではなく「ストッキング」ではないか。さらに「絹の靴下」ではなく「ナイロンのストッキング」とすべきではないか。

 「ナイロンのストッキング」としては歌としては面白みがないということは重々承知している。だがナイロンストッキングの全盛時代に「絹の靴下」で女心を表すのはどうもしっくりこない。

 それに上流社会だから「絹の靴下」ということもないと思う。上流社会でも「ナイロンのストッキング」は使われたはずである。

 時代は中流。上流社会というものが中流には想像できない社会であった。
 阿久悠さん。いい歌をたくさん書いた人だが、いまいち共感を欠くものも多い。
 
 せっかくの孫の留学先のリヨンの話。こんな話を糸口にしたくはないのだが、絹の歴史何千年の行く先に、ナイロンが登場してしまうのである。

 絹は紀元前2世紀ころからシルクロードをたどって西安からペルシャ、バグダッド、イスタンブール、ローマへと運ばれた壮大な歴史がある。
 
 絹の道と呼ばれる8000キロにも及ぶ交易路が、日本の弥生時代から存在していた。筆力の問題ではない。とても書き表せるものではない。

 ヨーロッパでは東ローマ帝国時代を経て、14世紀頃には生産を含めて絹産業が盛んになったようだが、フィレンツェやヴェネツィアがその中心的存在と知ると、絹の力というものを感じざるを得ない。

 リヨンと絹の関係は15世紀、ルイ11世が南仏で養蚕業を奨励し、リヨンに絹織物産業の基盤を築いたことが始まりで、16世紀には王室から特許を与えられ、リヨンはヨーロッパ随一の絹産業都市になった。

 「ローヌ川とソーヌ川の合流点に位置するリヨンは、古代ローマ以来の交易拠点。絹織物はこの地理的優位を活かしてヨーロッパ各地へ広がりました」という記述を読むと、豊かで美しい街なのだろうなと思う。

 意外にもリヨンは日本と関係の深い街であることを知った。
 19世紀の半ばに蚕の病気がヨーロッパ全体に蔓延し、養蚕業が壊滅的打撃を受けたことがあるらしい。

 その時注目されたのが日本の良質な生糸と病気に強い蚕。横浜港を通じて輸入され、リヨンの絹産業は復活することになる。リヨンと横浜は姉妹都市となっている。遠いリヨンが近くに思えてくる。

 紀元前に始まったシルクロードを介しての交易が、最終的にはフランス・リヨンに到達することになる。

 ナイロンの発明によりリヨンの絹産業も打撃を受けたらしい。それはリヨンに限らない。日本も同じである。
 
 ナイロンの歴史はまだ100年にもなっていない。だが数千年の絹を衰退させてしまった。だからどうのということではなく、孫には元気に留学時代を過ごしてほしいと思うばかりである。

 壮大な絹の歴史。話をまとめろと言っても無理である。

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