「高齢とは死ぬまでの時間つぶし」という言い方があるらしい。私のオリジナルと思っていたが、とっくに先人がいたようだ。
「高齢とは死ぬまでの意味づくり」という言葉が高齢者向け雑誌にあったが、どうもいまいち同感とはいかない。高齢になってまで「意味づくり」などしたくない。
「高齢とは死ぬまでの時間つぶし」でいいと思うのだが、こういう言葉はクールで現実をそのまま言い当ててはいるが、やはりそれだけではどこか寂しく救いがない。
じゃあ高齢はどうしたらいいのかということだが、「高齢とは死ぬまでの時間を味わうもの」というのが、力みもなく、変な独善もなくていいと思う。
今日何年かぶりに石神井公園に出かけた。出かけるのは毎日のことであるから、近所の人からは、「あの家はいつ行ってもいない」ということになっているらしい。
好きで出かけているのではなくリハビリのためである。だが今日は好きで出かけることを兼ねていた。
石神井公園は我が家から電車で行けば20分くらい。車では1時間と少々かかる。以前は電車で出かけていたが、それはランチでビールを楽しむため。今は歩くのがつらいからビールは諦めて車にしている。
石神井公園に行き始めて何年になるのか全く覚えていないが、毎年行くようになったのはメタセコイヤの黄葉からである。この公園でこの木を知った。三宝寺池の端にメタセコイヤの大木が何本もある。
残念ながら石神井公園の秋は始まったばかりで、メタセコイヤもまだ夏のままであった。秋真っ盛りとなればイチョウももみじも石神井池に映り、なかなかの景色になる。
石神井池のボート乗り場から道路を隔てた向かい側にそば屋がある。以前何度か行った店であるが、温かい天ぷらそばが絶品で、ここではいつもの「もり」ではなく、温かいそばを食べることにしている。
ここの天ぷらそばは、かけそばに天ぷらが別皿でついてくる。これを家内がとてもうれしがる。汁にひたした天ぷらよりも、温かいつゆにつけながら食べる方がおいしいと言う。カリカリ感が好きなようだ。
だが私はカリカリ感よりべっとり感が好きである。夕食に揚げた天ぷらの残りを、翌朝甘煮にして食べる。私の大好物である。
家内が一箸口にして、いつも行くそば屋の味と違うと言う。ころもはしっかり揚がっているのに海老はほとんど生に近い。
しばらく行かなかったから田舎の味に慣れてしまったのかもしれない。いつも行く店が田舎料理でおいしくないということではなく、料理とは味だけではなく洗練も必要ということに感心する。やはり都会には別の物がある。
見た目に美しく、美味なるそばを久しぶりに堪能した。一杯のそばにも料理人の思い入れがある。
「高齢とは死ぬまでの時間を味わうもの」でありたいが、人生を味わうにはそれなりの生き方をしてこないと味わえるものではない。
その年齢のときしか味わえないことを、慈しんで楽しんで生きてこなければ、高齢になって味わうものがない。
私は味わえるものを人生の中で、ずいぶん捨ててきてしまった。



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