10代は頑張る時

つぶやき

 孫が昨年ある私立大学の付属高校に入学した。
 私立高校としては都内屈指の名門校ということになるのだろうが、さすがに授業のレベルは高いらしい。
 最近孫から、こんなに頭のいい同級生がいるのか、と感心したり驚いたりするという話を聞く。それが分かっただけでもいい高校に入れたことは良かった。

 高校に入る前、3年ほど孫の家族(娘の家族ということであるが)は海外に住んだ。
 そこで日本にいては分からないことをいろいろ経験したようだが、日本人学校での経験は驚きであったようだ。
 生徒がみんな優秀、生徒の親が優秀、そしてお金持ちということだったらしい。
 父親が東大、母親はお茶の水という、自分たちの周囲ではあり得ないことが、ここではごく普通のことになっている。
 世の中広いというがそうではない。世の中には狭いと広いがある。狭い世界にいる人が、広い世界に現れると、広い世界に住んでいる人はびっくりするのである。

 人生公平であるべきだがこと頭脳と美貌に関しては平等ではない。
 生物学的に言えば頭脳と美貌は人間の生存と繁栄にかかわるものである。それが平等でないということは創造主である神様に何か深い考えがあってのことということになるが本当にそうだろうか。神様はいつも答えることはない。
 知り合いの子で、小学校3年生で東大に入ることが決まっている子がいる。決まっていると言えるほど優秀らしいということである。やはり人間は生まれながらに不平等である。

 頭のいい人の世界は、あまり頭のよくない人には分からない。逆にあまり頭のよくない人の世界は頭のいい人には分からない。
 頭のいい人はあまりしゃべらないというが、頭の悪い人を前にしてはしゃべらないということであろう。言ってもしょうがないと思っているからである。
 そういえば頭のいい人と何人か知り合いになったが、みんな私の前ではあまりしゃべらなかった。

 頭のよくない者が頭のいい人のことを書いても仕方ない。分かるはずはないのだから。才能は努力の問題ではないような気がする。努力によってできるものは大したことではないかもしれない。

 確かに人生には頭のいい人生とあまり頭のよくない人生が厳然としてある。しかし幸いなことに、頭がよくなければ生きていけない、ということではない。頭のいい人は生きていきやすいかもしれないが、人生を狭くするということもある。美人でなければ生きていけないということもない。生きることと頭の良さ、美人であることは関係ない。そのはずである。

 何を意図してこのブログを書き始めたのかはっきりしなくなってきた。
 今孫たちは高校2年生。大学進学、受験を控えた時期である。子供の頃には感じなかったものを感じる年齢である。
 私はただただ孫たちに頑張れと言いたい。
 最近、頑張れと言うより、頑張らなくていい、というのがトレンドらしいが、それとは違う。人生の緒についた青年にはやはり頑張れと言いたい。
 もっといい言葉があればいいがこの言葉しかない。しかし、がむしゃらではなく冷静に頑張ってほしい。冷静に頑張るということはいい指導者につくことである。

 人生にはいろいろな風景があるというが、やはりいい風景を見る人生であってほしい。いい友人もいい風景の中にいなければ得られない。
 10代は努力の時代である。空を自由に飛ぶ鳥は飛ぶ練習をする。鳥に生まれれば空を飛べるというものではない。練習に失敗すれば巣に戻ることはできない。

 孫が寡黙になっていくことに寂しい思いがした。しかしそれは孫が成長していることの証であり、私が歳をとったということである。
 努力することができる環境に感謝して頑張ってほしい。努力は一瞬である。努力の結果を楽しむことの方が長い。
 未来を楽しいものにするために今を頑張ってほしい。(了)

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