高齢者は集団自決すればいい

つぶやき

 週刊朝日がこの5月で休刊するという。廃刊とは言っていないが同じ事であろう。
日本社会のオピニオンリーダーとも言うべき週刊誌だった。

 新聞の発行部数も各紙とも大きく減少している。活字離れが進んでいるということであろうが、識者が言うように、新聞も読まない、本も読まない、ということでは日本人の思考力は低下するのではないか。

あまり本も読まない生活をしている私が言うことではないが、しかし新聞を読んでいると、新聞記者の文章のうまさ、論理の 明快さに感心させられる。やはり雑誌や新聞は大事なものだと思う。

 思考は、まず物事の概念をインプットしなければ始まらない。将棋の天才でも将棋のルールを知らなければ将棋を指すことはできない。

 概念とは先人の思考そのもののことである。そのためには人が書いたものを読み込む作業がどうしても必要である。その作業がなくなってしまうのではないか、ということに多少の心配を感じる。

 時代の変化とは社会の発展を意味することだと思う。新しいものが生まれれば古いものは廃れるよりしょうがない。

 インターネットや携帯電話などの情報技術の発展により、本屋はなくなり、新聞は発行部数を減らし、週刊誌は廃刊になる、ということである。

 活字に関する分野が目立つが、活字とは情報そのもののことであるから、情報技術に180度の変化があれば、活字社会に影響があるのは当然のことである。

 グーテンベルグの発明以来、活字文化は人間の発展に大きく貢献した。その時代が終わろうとしている。

 その端境期にいる世代として何か見届けるものはないかと思うが、老いた身には新しい技術を認識することすら難しい。有名な週刊誌の休刊という話を聞いて、ただただうろうろするばかりである。

 言うまでもないが、時代の移り先が衰退に向かう社会がある。「沈みゆく中流の現実」「いまや全国民に襲いかかる年収100万円減の現実」こんな見出しで雑誌が記事にしている。

 「日本経済と企業が目先の利益を求めて人件費を削り続け、“人を大事にしない社会”を作り出してきた結果だ」
 「雇用の規制緩和が行われこと、派遣の対象業務が原則自由化されこと、3年ルールが定着したことにより労働者は使い捨て状態になった」
 「こうして日本は、人件費を低く抑えて利益を生む、という禁断の蜜の味を知ってしまった」

 一部省略した部分もあるが、的確な表現なのでここに引用した。まさに禁断の蜜の味である。

 企業において利益を圧迫しているものは人件費である。会社の存続が危ういとなれば真っ先に行うのはリストラである。

 大学を出て社会に出るということは、大半は企業に勤めることであるが、しかし企業は優秀な人材が欲しいと言いながら、人件費こそが利益を妨げるものと認識している。
 だからそんなことのない、いい企業に就職しなければならない、ということになる。
 
 ブラック企業や、経営基盤の危うい会社に就職しようものなら悲惨な生活が待っている。いい大学を出て、いいところに就職する。このことが人生にとって何より大事なことになる。衰退していく社会にこれから出て行く若い人の将来が心配である。

 「高齢者は集団自決」という主張があることを知った。この主張を直接目や耳にしたわけではない。この主張がいろいろ批判を受けていることから、それを話題としてネットに載った記事を通じてである。

 集団自決とは穏やかな言葉ではないが、要は高齢化社会の弊害に対する対応策として、高齢者の尊厳死や安楽死を認めるべきではないか、という主張になるらしい。

 主張している人はたまにテレビでも見かけるメガネのレンズを右は丸、左は四角にしているまだ若い学者である。詳しく知りたくもないが、日本人の精神構造としてこのような主張が現れることに違和感はない。

 この学者さんは何を意図して言い出したのだろうか。批判が生じることは予想していたはずである。売名かもしれない。

 近所に住む友人が亡くなる前に、医師から延命措置を希望するか否か家族に打診があったという。
 一度延命措置をするとその装置は外せないことになるという。外す行為は殺人行為になる、ということであろうか。
 この話の整合性について理解できなくはないが、命は整合性で問うものではないと思う。(了)

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