高市首相の顔が怖い。大変失礼だが、映画やテレビでメーキャップした以外に、あれほど怖い顔の女性を見たことがない。
衆院選での大勝利。高市さんはこの機に乗じて何をしようとするのか。
憲法改正国民会議。スパイ防止法。なにか急いでいる気がする。
敗戦から八十年が過ぎた。焼け野原から立ち上がった日本は、アメリカの占領政策のもとで「民主主義」と「自由社会」を掲げ、新しい国家として再出発したはずだった。
しかし、その理念が80年経っても、社会の奥深くまで浸透したとは残念ながら言えない。奥深くどころか入り口にも入っていない。
たどり返してみると、戦後日本は民主主義を「採用した」だけで、民主主義を「理解した」とは言いがたい。
戦後教育を受けた政治家たちが、いまになって「戦前回帰」を口にする。
彼らは民主主義そのものが日本を弱くしたと信じているかのようだ。
だが、民主主義とは国家を弱める思想ではない。むしろ、多様な個人が尊重されることで社会が強くなるという考え方だ。
問題は、日本が「個人」を受け入れる準備ができていなかったことにある。
日本社会は長く「家」「村」「会社」といった共同体を単位に動いてきた
個人よりも「空気」や「和」が優先される文化が根強かった。異なる意見は「迷惑」や「わがまま」とみなされる。
民主主義は制度ではなく、個人を尊重する文化があって初めて機能する。
その文化が育たないまま制度だけが導入されたため、民主主義はどこか「借り物」のまま残った。これが日本の戦後社会だ。
なぜ政治家は多様性を恐れるのか。
それは、多様性が「統治の難しさ」をもたらすからだ。権力者にとっては、統一された価値観のほうが扱いやすい
だからこそ、「強い日本」「一つにまとまる日本」という言葉が好まれる。
しかしその裏側には、個人の自由や多様性を抑え込む思惑が潜んでいる。
「人として尊重される」のでは不十分で、「個人として尊重される」ことこそが民主主義の核心。
名前のない「国民」ではなく、一人ひとりの人生が尊重されること。
「みんな同じ」ではなく、「みんな違っていい」と言える社会であること。
国家のために個人があるのではなく、個人のために国家があること。
この価値観が根付かない限り、日本は何度でも同じ道を歩む危険がある。
日本は再び戦前と同じ道を歩むのか。ありえるかもしれない。
政治家が国をあらぬ方向に持っていってしまうのではない。国民が思考を停止して、強いリーダーを求めるからだ。
歴史は繰り返さない。しかし、似た構造は何度でも現れる。
なぜ高市を勝たせてしまったのか。国民が考えることを放棄したからである。


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