私は自分の人生をおもった通りに生きてきた。
おもった通りの人生とは、自分が思い描いた人生を生きた、ということではなく、こうとしかならないだろうな、と思った人生のことである。
一応学業という時代を終えて社会人になったが、社会に通用するような学歴でもなく、多分どこで働いても長続きはしないだろうと思っていた。
一部上場の建設会社などに就職したが会社とは名ばかりで、こちらからご辞退した。
以後何度か職を転々としたが、転職する度にその会社のいい加減さに目が行き、いずれ自分でなにか仕事を始めるしかないだろうと思っていた。
35歳にして会社勤めに見切りをつけ商売を始めたが、バブル景気で大儲けをして、バブル崩壊で行き詰った。
仕方なく、47歳の時新しい仕事を始めたが、これから先はもう後がない、と思っていた。
私には仕事を大きくしようとか、仕事の相手とうまくつき合おうとか、頭を下げて営業しようとか、そんな考えは一切なかった。
多分新しい仕事はそれまでの経験からうまくいくと思っていたが、自信があったわけではない。
しかし人生とは面白いもので、「あまり商売熱心でないのがいい」と応援してくれる変わった人もいて、新しい仕事を始めて20年ほどの間、処理しきれないほどの仕事に恵まれた。
しかし仕事を永続させるような努力を一切しなかったから、いずれ持ち駒を使い果たし、じり貧になっていくのではないかと思っていた。
知人に、「息子さんは後を継がないのですか」とよく聞かれたが、自分の仕事に誇りもやりがいも持っていたわけではないので、「息子にこんな仕事を継がせるわけにはいきません」と答えていた。
思っていた通り、75歳で仕事をやめるまで徐々に仕事は減っていった。しかし会社勤めの時とは違い、20年以上も同じ仕事を続けていた。
人生100年の時代を生き残っていくには、十分すぎるほどの仕事を終えていた。
私の人生は「間に合った」ということになる。
しかし人生のある面では「間に合った」が、人生のなんたるかを知るには間に合わないようだ。
孫が中学3年生の時、孫が今通う高校の受験を勧めてくれる人がいた、という話を後から聞いた。その人は孫の性格や学力を見抜いていたようで、的確なアドバイスを孫たちにしたようであった。
孫はその人の言う通り合格した。その人の話がなければ思いもつかないような名門高校である。
こういうアドバイスができるような人を教養人というのであろう。こういう人生を送らなければと思うが、誰でもできることではない。
世の中に対する幻滅を口にする前に、自分は知ることのない素晴らしい人生を送っている人達がいることに信頼を置かなければいけないと思う。
間にあった人生、逃げ切れそうな人生。よかったと思うが、なにか空虚なのである。これを空虚と言っていいのものなのか。(了)
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