昨日の夕刊のトップは小池さんの3選出馬かと思ったら、加藤和彦という人の「没後15年」という記事であった。
小池さんの出馬発表は午後のことであったから夕刊には間に合わない。
しかし出馬とは変な言葉である。馬ではないのだから出場(しゅつば)でいいのではないかと思う。
他の新聞は知らないが、このところ毎日新聞は朝刊でも夕刊でも1面に意外な記事を載せる。新聞の1面は政治、経済、国際問題と思っているからである。
加藤和彦が1面のトップ。新聞もいろいろ変わっていくのであろうが、正直言って、「毎日新聞は何を考えているのか」と思う。
加藤和彦という人を知らないわけではない。「帰って来たヨッパライ」のフォーク・クルセダーズのメンバーであり、安井かずみの夫であり、中丸三千繪と再婚し、離婚し、不思議なピーチパイの作曲者であることくらいは知っている。
新聞によれば62歳の時自殺した。私と同い歳である。
加藤和彦という人に多少関心があった。それは家内から、都会的なしゃれた人だと聞いたことからである。
私は都会的なしゃれた人というのがほとんど分からない。所詮私には関係のないことであるから真似ようと思ったこともなく、憧れたこともない。
ただ「都会的でしゃれた人」というのは確かに世の中にはいるもので、自分はそういう人間ではないから、横目でチラッと見るように、少し気になるということである。
その加藤和彦が、「世の中は音楽なんて必要としていないし、私にも今は必要もない。創りたくもなくなってしまった」という遺書を残して自殺した。
自殺した時代、音楽は自殺するほど変わってしまった、ということなのだろうか。文面からすると鬱とも考えられる。
今の季節、朝4時は陽が昇り始める。ラジオ深夜便の歌番組は3時からだが、今日は吉田正の特集であった。自ら天才と称した歌謡曲の作曲家である。
松尾和子さんの歌が流れた。やめてくれ、と思わずイヤーホーンをはずした。
私の世代は2つの世代に分かれる。松尾和子さんが歌った歌のように中身もなく、ただ情念に訴える歌を聴いてしまった世代とそれに耳をふさいだ世代。
私は聞いてしまった世代である。
ああいう歌はあってはいけない。作ってはいけないものがあることを作詞家は知っているべきである。政治的とか卑猥とかいうことではない。「詞にしてはいけない情念」というものがあるのだ。
1960年の後半以降、極端な言い方になるが、歌は松尾和子的なものからの脱却であった。脚にまとわりつくような歌は人間をだめにする。
加藤和彦さんはその先頭にいたが、いつしか音楽を必要としない世の中に身を置くようになった。真剣であればあるほど生きる道が狭くなる。
没後15年。音楽に真剣に、そしておしゃれでスマートでカッコよかった加藤和彦さんのご冥福を祈る。(了)
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