逝ってしまった友を想う

つぶやき

 80近くまで生きてきて、これからさらに生きていくことは、運次第なのだなと思う。

 なんとなく生きて来た先に今の歳があるから、病気をしても回復すれば特別歳を気にすることはなかった。しかし何人もの同年配の知人の死に遭うと、死の淵に足を踏み入れていることを実感するようになる。もう若くはないのだ。

 「ひょっとして」という気持ちがあって、何日か前に知人にショートメールを入れたが、返ってきた返事は息子さんからの、「父は1月に亡くなりました」という電話であった。

 体調があまりよくないという話は昨年から聞いていたから、私の勘が当たったということではなく、そういう年齢だったということである。

 亡くなった知人は早稲田の法学部を出て、50近くまで小学校か中学校の用務員をしていたが、その後司法書士業を開業していた。

 その前に行政書士の資格を取っていたようだが、いずれの資格も「みっともない資格だ」と言って、支給されたバッジなどはすべて捨てたという。それならそんな試験など受けなければいいと思ったものである。

 自ら口にすることはなかったが、学校の用務員をやりながら司法試験を目指していたのではないか。この試験は、受からない人はどんなにいい大学を出ていても受からないらしい。

 司法試験を目指した人にとって、司法書士や行政書士などの職業は屈辱的なものであるようだ。これらは法律家ではなく代書屋にすぎないからである。

 50近くになって司法試験をあきらめて、不本意ながら司法書士になったのかもしれない。しかし偏屈な人ではなかった。
 会社勤めの経験はなかったようだから、そういうことからか雰囲気とか服装なども個性的であった。

 30年近い付き合いであったが、会って話をしたり酒を飲んだのは数えるほどしかない。ただ私と電話のやり取りをした人は、今までの私の人生の中で彼がダントツに多い。いろいろと迷惑をかけた人でもある。

 多くは言わなかったし、自分の心配を他人に言うような人ではなかったが、病気のことは少し気にしていた。
 
 人の死というものは本人から聞くことはできない。
 「オレ死んじゃったんだよ」という電話があってもいいような気がする。みんな黙って死んでいく。

 酒を愛し、クラシック音楽が好きだった。レクィエムはブラームスと思ったが、ヴェルディが合う。今晩酒と共に、彼の冥福を祈る。

 私には友人はいないが、この表題では「友」とした。

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