昨日は喉頭がん定期検診。この日は家に帰るとくしゃみと鼻水が止まらなくなる。内視鏡を鼻に入れるときに麻酔剤を注入するせいである。
局所に変化が見られるという所見。再発かどうかは細胞検査をしてみなければわからないという。
そうならすぐにして欲しいと思うが、少し今後の経過を見るという。
術後1年10ヵ月の間、経過を見てきた。どんな変化にも対応できると医師は言う。有難いことであるが、面倒なことにならなければと思う。
じたばたしてもしょうがない。「十分生きてきた」、という歳になっているではないか、と自分に言い聞かせる。
自然だの、美しい景色だの、趣味だの、と気を紛らわせるだけでなく、死というものを正面から見つめることも必要なことである、と局所のわずかな変化に気の持ち方も変わってしまう情けない自分に気づく。
このところ意外な死亡記事を目にする。著名な写真家やタレントさんが、80歳を少し過ぎた年齢で老衰死と報道されていることである。
いままで滅多に老衰死という死因を聞いたことがないが最近馬鹿に多い。確かに人間80歳にもなれば老衰ということになるが、人生100年と言われる昨今、どうもしっくりこない。
がんは直る時代になってきたと言われるが、やはりそう単純なものではないらしい。
叶井俊太郎さんという人も、奥さんという倉田真由美さんという人も全く存じ上げないが、ここ何か月か、倉田真由美さんの記事をネットで見てきた。
ご主人のステージ4のすい臓がんについての記事が主なことであったが、先日亡くなられた。ああやっぱり、という気持ちになるのがつらい。
命に限りがあるのは仕方ないことかもしれないが、「命の限り」というものを考えれば老衰死が最も人間らしい死に方ということになるのだろうか。
老衰死は自然死ということだが、それ以外はすべて事故死ということになる。病気も事故死ということになる。
古今東西の宗教は、「人間は死んだらどうなるか」、を説いたものだと言われている。それを信じるか否かが宗教ということになるらしいが、科学的ではないということをもって否定するべきではないという主張があった。
科学は生命を解き明かしてはいない。そんな科学に生命を説く宗教を否定する資格はないという。論理のようで論理ではない気がする。
死んだ経験がないから分からないが、病気で死ぬとき「自分は死ぬな」ということが判るのだろうか。病死と突然死、どっちがいいか考えてしまう。
死について考えると言っても大したことが考えられるわけでもない。
死を考えることは死を忘れるということになる。死について経験談を聞くことはできないから結局死について分かっていることは、この世からいなくなる、ということだけである。死においてハッキリしているのはこれだけである。
定期検診で再発宣告を受けたわけではないが、局所の変化というのは最初にがん宣告を受けた時より少々気が重い。変化しないと思っていたものが変化していたことを認めることになるからだと思う。
しかし画像のハレーションということもある。気長に経過観察をしているうちに老衰になるということもある。人生思いを残すことなく生きていればいいということである。(了)
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