信州上田には何度も行っている。
目的は、最初は蕎麦であったが、途中から松茸となった。
上田の蕎麦は池波正太郎さんが愛したという蕎麦屋さんがきっかけである。
なにより蕎麦の量が多い。大盛りを頼むと普通で十分ですと言う。確かに普通が普通ではない量であった。蕎麦は少し太めだがこしをあまり感じない。汁は辛めであるが、江戸老舗のような洗練された味ではない。
この蕎麦がおいしいのか、といつも思いながら食べていたが、私の好みの味にはならなかった。
松茸は、長瀞の宝登山神社の参道にあるレストランで知り合った人から聞いた話である。ものすごく安くて量が多い、絶対お得です、と勧めてくれる。
その日は新車がきて間もない時で、慣らし運転でどこかに行ってみようという日だった。
多分翌週の休みには上田に向かったと思う。目的地は別所温泉である。上田電鉄別所線では終点となる。
温泉街に近接して安楽寺、常楽寺、北向観音など北条氏ゆかりの古刹があることから信州の鎌倉と呼ばれる。
安楽寺八角三重の塔はちょっと変わった趣がある。一見の価値がある。
いろいろな作家が創作の仕事場として逗留したらしい。
もはや化石と言ってもいい「愛染かつら」という小説があった。映画やテレビドラマとしても放送され、大ヒットした恋愛小説と言われているが、北向観音にある桂の木と愛染明王堂の名を取ってつけたと言われている。ストーリーには関係がないらしい。
この映画の主題歌は日本歌謡曲の傑作中の傑作と私は思っている。
別所温泉の観光案内になってしまったが、別所温泉の周辺には松茸小屋という簡易な建物が建てられていて、シーズンになるとその小屋が松茸料理の店となる。
細い山道の奥にあるので大型車では怖い思いをする。関東周辺で唯一なのかは確認していないが、松茸の名産地として知られている。
一人1万円のコースが多い。土瓶蒸しから始まって鍋まで一応の松茸料理が出るが、一本焼きは別料金で1本1万円である。これは地元産らしい。
何年か前、長雨の影響か松茸が大豊作と言われた時があった。安くなるのかなと思っていたが、値段は変わらなかった。
いつものかんぐりだが、本当に地元産だろうかと疑うこともある。地元産だけでは賄いきれないという話もあるからである。
自分たちの土産に買って帰るが、朝取りというだけあって高い。数万円払って2本くらいである。食べ物の値段ではない。
ある年、上田から別所温泉に向かう道をいつもとは変えた時、無言館という標識を見かけた。同乗していた妻はこの名を知っていたが、この地にあるとは知らなかったようだ。私は全く知らない名である。
無言館。戦没学生慰霊美術館と呼ばれるようだ。一応は私設の美術館として知られているが、館主の窪島誠一郎氏は、美術館なのか戦没者の追悼施設なのかその性格をあえて不明瞭にしているようである。
戦争で亡くなった学生の遺作となった絵画などが展示されている。
窪島誠一郎氏が遺族を探し尋ねて借り受け、展示したとされている。
収集には遺族の誤解や思いもあり、ずいぶん苦労をされたようだ。6月に102歳で亡くなられた野見山暁治氏も関与したらしい。
展示された絵について私の印象を述べたところで意味もないが、親との別れ、妻との別れを彷彿させる絵には見る者に迫るものがある。
先日声聴館という名を新聞で知った。東京音楽学校、現在の東京芸術大学出身で、戦争で亡くなられた人の作品や記念物を公開、展示する施設である。
施設と言っても声聴館という建物が存在するということではなく、「芸大のホームページ上に開設した戦時音楽学生Webアーカイブズ声聴館です」と関係者が紹介している。
芸大のホールで既に何回か演奏会が開催されたらしい。戦争の犠牲になった人の音楽に思いを馳せることはできるが、演奏はその思いを表現できるだろうか。音楽にとって最も難しい課題である。
しかし戦争によって音楽への夢を断ち切られた人に、音楽愛好者として無関心であってはいけないことを知らされた。
戦争で亡くなられた人を悼むことは個人の心のうちのことである。人の組織によって戦争犠牲者を悼むものではない。
人の集まりというものは、特定の主張を持つと破綻することが多い。具体的に言えば分裂である。スタート時には同調しても時とともに考え方の違いというものが出てくる。人を悼むのに自分の方が正しい、などということがあるはずがない。
無言館という命名を理解できる。戦争の犠牲になった画学生の作品を展示する美術館である。作者は何も語らない。展示する者も何も説明しない。
創立者である窪島誠一郎氏という人はどういう人なのであろうか。何がこの人にここまでの努力をさせたのであろうか。
無言館も以前に比べ大分入場者が減ってきたようだ。同じような話を原爆画の丸木美術館でも耳にする。もはや維持するのが困難のような状態であるらしい。平和について人は語らなくなった。時の流れは戦争を語る人だけでなく、平和を語る人も失くしてしまうようだ。(了)
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