どうして歌謡曲は水商売の女性を歌った歌が多いのだろうかといつも思うが、疑問に思うほど高尚なことではない。作詞家の周りは水商売の女性ばかりということである。
「こんな苦労に ケリつけて たとえひと間の部屋でよい 母と娘の 暮しが欲しい」。
この歌の作詞家を知らないが、多分苦労した人ではないだろうか。
たとえひと間の部屋でよい、という詞には共感がある。母がよく口にしていた。念のため母は芸者ではない。
叔母の家に居候していて、「たとえひと間の部屋でよい 親子4人の暮しがしたい」といつも想っていたようだ。
母は幼い子供を抱えながらも水商売に身を沈めなかった、ということを自慢にしていた。最近聞かなくなった「水商売に身を沈める」。今は「水商売で身を立てる」
よく歌謡曲の詞が頭に浮かぶ。このなん日かは、「ひとつや ふたつじゃないの ふるきずは…」
ひとつやふたつじゃない古傷を持つ女性、どんな女性なのか。
「つくし足りない わたしが悪い」と自分を責めることもないと思う。
「こんなわたしで いいならあげる なにもかも」。自らを卑しめることもない。
昭和歌謡は歌謡曲の全盛時代。しかし同時に心の貧しさを露呈した時代でもあった。
はるみさんには申し訳ないが、こんな歌が流行ってはいけない。
銀座のクラブの飲み代を聴かされていただけのことである。
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