技ありと決まり手

つぶやき

 これも備忘録。相撲を説明するつもりではない。
 大相撲九州場所はきのう14日目に、大の里、豊昇龍がともに敗けて11勝3敗。安青錦と3人が相星となった。

 千秋楽、安青錦が琴桜に勝てば、大の里・豊昇龍戦の勝者と優勝決定戦。
 
 ところがその千秋楽の今日昼過ぎ、突然の大の里休場のニュース。どうしたのかと思ったが詳細の説明はない。
 
 結びの一番、安青錦が琴桜に勝ち、豊昇龍との優勝決定戦をなんなく制して初優勝。

 ウクライナ侵攻が始まった年に17才で来日してわずか3年。来場所は大関昇進が確実らしい。大変なスピード出世。なんとも素晴らしい若者である。

 それにひきかえ日本人力士の無気力が目立つ。モンゴルの力士も、最近では土俵よりお座敷遊びの方が似合うような人も出てきた。

 優勝インタビュー。日本語がうまい。ウクライナの国立大学に合格が決まっていたという秀才でもある。日本人は中学から英語を習い始めて10年かかってもしゃべれない。

 「この喜びを誰に伝えたいですか?」とインタビュアーは訊くかと思っていたが訊かなかった。「もちろんウクライナの人々にです」と答えたら万雷の拍手ではなかったか。 NHKの放送。政治色を避けたということか。

 今場所も微妙な判定が多かった。大の里・安青錦戦は大の里が先に土俵についていた。微妙というのであれば取り直しにすべきであったが大の里の勝ち。
 物言いをつけなくてもいいような一番に物言いをつけるくせに、審判員は何を考えているのか。

 ピンクのまわしで股を広げて転げ回る姿は見たくない。汚い相撲を取った力士は全員負け越しになってほしいが、一人勝ち越しした力士がいた。相撲に正義は存在しない。

 少し酩酊して気がついたことだが、相撲には「技あり」ということがない。言い換えれば「技あり」による勝敗の判定がない。なぜなのか。

 「技あり」によって相手が完全に制御を失って倒れ込んでいるときに、技をかけた者が勢い余って先に倒れた場合その者の敗けとなる。投げられた者は土俵を出ても宙に浮いていれば勝つことになる。柔道ではそういうことはない。

 相撲は「技あり」ではなく「決まり手」であった。技があっても決まったたことにはならない。なにを「決まり」というのだろうか。

 相撲の勝敗は、「どちらが土俵外に出たか」「どちらが先に体の一部を土俵につけたか」で決まる。「上手投げで勝った」のではなく、「上手投げで相手に土がついた」から勝ったのである。

 こんな説明がある。
 《相撲に「技あり一本」がないのは不合理ではなく、神事由来の単純な勝敗規定を守ることで、相撲という競技の本質を維持している。柔道の「技あり」と比較すると違和感があるが、相撲では「最後の一瞬まで勝敗が分からない」ことが魅力なのである》

 「土俵の外に出ること」「土がつくこと」が神事由来の勝敗の決め方だと言うのである。技の巧みさや力の強さということはあるが、それが勝敗を決めるわけではない。それらは経緯であって結果ではない。

 勝敗たる結果はあくまで「土俵の外に出ること」と「土がつくこと」。それを神事由来というのだからそれらは不浄なこととしたのであろう。神様に関することなのだから死を意味することなのかもしれない。

 技で勝敗を決めるのは近代合理主義の産物だと言う。日本古来の剣道や柔道は、国際化のために技で勝敗を決めることにしてからその精神を失ってしまった、と言う。

 精神という言葉が出てくると理屈ではどうしようもないことになる。相撲の勝敗は技ではない。不浄であることが勝敗の岐れ目となる。なるほどそうであれば相撲は確かに神事である。

 同体は勝敗がはっきりしないから取り直すのではなく、共に不浄であるから取り直しとなる。相撲とはこんなに明快なものであったとは知らなかった。

 しかし安青錦は強すぎる。相撲は神事だと相撲協会がもったいぶったようなことを言っているうちに、ヨーロッパの青年はさっさとてっぺんにまで上り詰めようとしている。

 目はブルー、髪はブラウン、白い肌。いずれ明治神宮で奉納土俵入りをするかもしれない。モンゴル人は日本人と似ているがヨーロッパ人は初めてとなる。神様は目を白黒するかもしれない。

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