いつものように気分転換のため車を走らせていて、ある高齢な一人住まいのご婦人の様子が気になり、車の向きを変えた。家を訪ねるわけではなく、表から表札を見るだけのことである。
建物は建て替えられていて、不動産屋の「分譲中」の、のぼり旗が立っていた。去年来たときは以前のままだった。
ご夫婦揃ってのお付き合いであったが、ご主人は20年ほど前に亡くなっている。その後訪ねることもせず過ぎてしまった。申し訳ないと念じながら、その家の前をゆっくり通り過ぎた。
不動産屋をやっていた時、ひとつだけ悔やむ取引があった。悔やむというより私の失敗というべきことである。
ある土地の売却を依頼されたが、当時のバブルによる金融緩和を知らず、転売業者に従来の相場価格で売却を斡旋してしまったのである。
その業者の信用を確かめるため会社を訪ねたが、マンションの一室で奥さんを唯一の社員としているような会社であった。
「この土地を買ってどう利用されるのか」、と訊くと、他に別の会社を経営していて、その社員たちの寮にするという。
買値は当時の相場としては最高値であった。
その業者に売却した翌日、その土地が売却価格の倍以上の価格で売りに出されていることを、売却した売主からの電話で知った。近所に「売り地」としてチラシ広告が入ったことから売主の知人が連絡したらしい。
その業者に、約束が違うではないか、と質したが、予定が変わって転売することにしたという。買った物をどうするかはこちらの勝手と言う。
あの時代、土地価格が倍々ゲームと言われたように、とんでもない価格で転売されていた。アパートなどの零細な斡旋業をしていた私は、そのことを知らなかった。
転売業者に騙されたということも言えるし、土地融資にいくらでも金を貸すようになっていた銀行の存在を知らないバカな不動産屋ということでもある。
売却の依頼人に、例えば10億で売れるものを1億で売ってしまったということになった。
その後何年かしてその業者に電話をした。騙されたとは言わないが、なにかひとこと言いたかったのである。
奥さんが出て、「主人は亡くなりました」と言う。
「病気でもされて」と訊くと、「自宅の階段から落ちて死にました。どちら様でしょうか」と訊ねる。
「ご主人に騙された不動産屋です」と言いたかったが言わなかった。
寂しげな声であった。夫が亡くなって間もないようである。
あの男が階段から落ちて死んだ。その後ずっと考えていた。売主に伝えるべきかと。
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