私の住む町は、東京の郊外に延びる私鉄の沿線にある。
最寄りの駅は50年ほど前に新設されたそうだが、他の駅が設置された時代から見れば今でも新駅、ということになっている。
駅周辺は武蔵野の面影を残す雑木林だったが、この鉄道会社によって買収され、区画整理を経て、駅前からマンションが立ち並ぶ東京のベッドタウンとなった。
私はこの駅ができて間もない頃仕事で立ち寄ったことがある。
駅の東西南北、四方八方掘り起こされ、赤土が各所に積み上げられた区画整理工事中の雑然とした景色であったが、その先には夕映えに浮かぶ影絵のような富士山があった。
区画整理後あっという間に駅周辺は高層マンションの町となった。
駅前というのはとにかくパチンコ屋があり、横丁と呼ばれる狭い路地に飲食店や居酒屋などが軒を並べる雑多な町であることが多いが、この駅前にはそのようものはない。
鉄道会社が土地を処分しなかったのか、そのような店が出店できる余地がなかったようだ。面白みも活気もない町と評されるようだが、清潔で穏やかな町であることはいいことである。
私はこの駅前のマンション街を抜けて、まだ雑木林の豊かな緑が残る住宅地に建てられたマンションを新たな生活の場として選んだ。31歳の時である。
ここで2歳半と1歳の子供たちは成長し、共に20歳過ぎまで一緒にすごした。
40代の半ばを過ぎたとき、このマンションから100メートルほど離れた住宅地の一画を購入する機会を得、50歳の時にこの地に建てた家に転居した。
ここは駅からの道が住宅地へと分かれる角地にある。
家を建てるとき窓の大きい家にこだわった。道路面に面する居間の2面の壁は、いずれも大きな窓が取りつけられた。
後から知ったことだが、そのため耐震性の弱い家となってしまった。
この窓から駅に向かい、駅から帰る人々を見かけることになる。
住み始めて25年。母親に手を引かれていた幼児は成人した姿で歩いている。
小学生であった子は子供を連れている。ハンサムな青年は白髪になってしまった。
昨日まで背筋を伸ばして歩いていた人が杖をついている。
夫を亡くした女性。
浦島太郎の玉手箱を開けたような時間が過ぎてしまった。
窓に姿のない人のことを想う。みんな死んでしまった。
この町に生きて45年。楽しい年月であったが、最後は寂しいものとなった。(了)
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