12月の定期検診が終わった。CT、腫瘍マーカー、内視鏡、いずれも病変は見当たらない、ということであった。
診察室を退室するとき若い担当医が、「よいお年をお迎えください」、と私に声をかけた。
私は一瞬何のことかと思ったが、そうか次回は来年の1月であったかと思い、私は体の向きを戻して、今年は大変お世話になりました、先生も良いお年をお迎えください、と応えた。
彼はいくつなのだろうか。いつも明るく対応してくれる。いい青年だと思った。
さんざんな1年であった。繰り返しここに書く気にもなれない。しかし私以上にさんざんな1年であったのは家族だろう。喉頭がんの告知を受けたことを伝えたときどんな気持であったか。つらい思いをかけてしまった。
逆の立場を経験したことがある。10年ほど前、妻が防衛医大から尿管癌の疑いありと診断されたのである。
生存率の低い癌である。友人の医師に相談したら、尿管癌であるなら助からない、ということであった。頭に黒い幕がかかったようだった。
結果として誤診であった。防衛医大での診察資料を彼に診てもらったところ、これは画像のハレーションだという。
まさかそんな初歩的なミスがあるのかと耳を疑ったが、彼はそう言い切るのである。
すぐに防衛医大の担当医にその旨伝えると、大変参考になりました、という返事であった。
半年間妻は検査検査で心も体も苦しんだ。私も一時は覚悟した。
結局友人の言うことが正しいということになり、防衛医大の担当医は、癌でなくてよかったじゃないですか、という言葉を診断の最後の言葉とした。そんなことがあった。
我が家の屋根と外壁の塗装が終わった。2週間かかった。今までの外壁は多少ベージュの色合いがあったが、今回は明るいグレーとした。
色っぽさのない、どちらかと言えば冷たい印象をあたえるものであるが、終の棲家にふさわしい端正で品のいい色合いになった。
我が家を建てて25年になる。2歳違いの2人の子供が二十歳前後の頃である。二人とも結婚が早かったから、子供たちはわずか数年しかこの家に住んでいない。
子供たちに、懐かしい我が家、という気持ちはないかもしれない。柱のきずはおととしの5月5日の背くらべ、という思い出がこの家にはないのである。
子供たちはこの家に生まれ、この家で育ったという気持ちを持つこともなく、家を出ていったということになる。
家を出ていった、というよりも間借り人が、他にいい家を見つけたから引っ越しします、という感じで二人とも家からいなくなった、というのが実感である。
私の母は、自分の子供が結婚するということが理解できなかったのではないかと思われる節がある。
娘はいいとして、男の子はいつまでも自分のそばにいるものだと思っていたようなのである。
男の子が働くようになって、今までの苦労がやっと報われるというときに、子は自分から去ってしまう。そんなはずではなかった、という気持ちが母にあったように思うのである。
私が結婚するとき、新婚所帯として津田沼のアパートを借りたが、母に見てもらったことがある。私は母が喜んでくれるものと思っていたが、なにかとても寂しそうであった。
子供が結婚して一人前になる。それは親の役目であり、親の悦びであるはずだが、そう思えない親の人生というのもあるのである。
50歳の時に建てた家であるから、我々夫婦もこの家での子育ての思い出はない。成人になった子供は幼い頃の子供とは別物である。
以前住んでいたマンションはまさに子育ての時代であったから、中学校、高校時代の娘の不機嫌そうな顔を思い出すときは、そのマンションの壁のクロスまで思い出す。
息子が育ち盛りの時も思い浮かぶのは、山盛りのカレーライスを何度もお代わりした
あのマンションの狭い台所兼食堂である。
子供二人と母親との生活のために建てた家である。今では夫婦二人の生活には広すぎるともいえる。
私が先に逝ったときは、この家をデイサービスのような家にして友達を呼んだらどうかと妻に話をしている。
妻には高齢になってしまった友達が多いのである。その友達から、そうしてもらえるなら早い方がいい、と言われているらしい。
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