「余は今まで…いわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは、いかなる場合にも、平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということは、いかなる場合にも平気で生きていることであった」
昨晩遅くこの言葉を目にして、今朝風呂に入って反芻し、この言葉をブログに書いて気持ちに残る言葉となった。
がしかし、「いかなる場合にも平気で生きていること」は難しい。結局悟りを開くことは難しいことということになる。
正岡子規という人が、若い頃から死と向き合う生き方を強いられた人であったことは、司馬遼太郎さんの小説で知った。彼の言葉には感心を超えた重みがある。
高市首相が国旗損壊罪の新設にこだわっている、と新聞が伝えている。
国旗なのだから尊重しなければというのもよく判る。今の国の在り方が間違っていると考えるから国旗に×をする人のこともよく分かる。
20数年前に国旗及び国歌に関する法律が制定されたが、「国旗とする国歌とする」と定めただけで国民の義務とする規定はない。当時官房長官であった野中広務氏も義務ではないと言っていた。
だが制定に伴い小渕首相の談話がある。要旨として、
「今回の法制化は、国民に新たに義務を課すものではない。しかしこれを機に『日章旗』や『君が代』の由来などについて、より理解を深めてもらいたい」
「学校教育においても法制化によって国旗と国歌に対する正しい理解が促進されるものと考えている。…国旗と国歌について尊重する教育が適切に行われることを通じて、次代を担う子どもたちが、尊敬される日本人として成長することを期待している」
この法律が制定されてから各地の教育委員会は、君が代を歌わない教師を減給とか停職処分にした。公務員の職務違反ということになるらしい。
国旗及び国歌に関する法律では義務ではないが、首相の談話では「尊重」という義務になっている。
国民を強制させるものは権力そのものではなく、権力にへつらい忖度する出先機関である。警察がその典型だが、教育委員会も同様。
参政党の改正案は、「日本国に対して侮辱を加える目的」で日本の国旗その他の国章を損壊し、除去し、汚損した場合に2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金に処する、と定める。
「侮辱を加える目的」と行為を限定していることは条文としていいことだが、「侮辱を加える目的」というのは外観に現れない。
「そういう行為が侮辱を加える目的なのだ」とされると、どんな行為でも、「侮辱を加える目的」となる。
「息苦しい社会にするのか」と毎日新聞の社説は述べている。権力は息苦しい社会が好きなのである。


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