去りゆく年、去りゆく者

つぶやき

 今年が終わろうしている。1年は夏が過ぎると早い。秋の日はつるべ落としというが、日だけでなく季節もつるべ落としである。

 夏が終わると一つ歳をとった気になる。

 今年はどんな年だったかと考えてみた。私個人としては、老境に足を踏み入れた年だった、という気がする。

 高齢者は65才からということになっているからとっくに老境に入っているのだがそうではない。老いは制度で感じるものではなく本人の気持ちであると思っている。

 その気持ちが変わったわけではないが、今年は客観的に老いを痛感させられる年であった。

 私が入退院を繰り返したことがその要因であろうが、周りの人の老いを毎日のように聞き、目にした年でもあった。私と年の近い知人が何人も亡くなった。

 医者はこんなことを言う。「人生100年の時代、それに合わせて体の部品を修理して元気になりましょう」

 幸い私の病気はいまのところ外科的処置で正常に近い状態になった。薬は全く服用していない。医師に感謝する年でもある。
 
 日本の社会、世界とも大きな変化のあった年であった。毎年、年末の新聞やテレビは激動の1年と銘打って特集記事や番組を組むが、今年の激動は本物である。コロナ、ロシアのウクライナ侵略、安倍首相暗殺。

 あってはならないことが現実に起きた年であった。

 地球規模に目を転ずれば、地球温暖化によると思われる水害が世界各地で起きた。またそれとは反対に乾燥化により、大規模な山林火災が発生した。

 しかし地球温暖化をもたらしたものは人類の英知であり、人類の英知は人類のエゴすらコントロールすることができないことが明らかになった。。

 アングロサクソンに対する戦争だ、とプーチンは言ったという側近の談話があったそうだ。我々日本人には民族問題は理解できない。

 アイヌ民族をスラブ系の民族であるとし、その民族が日本人によって抑圧されている、アイヌ民族を解放するため北海道侵攻もあり得る、と言ったという話も伝わっている。

 事の真偽はどうであれ、あれほどの暴挙を犯しながらプーチンの正当性が伝わってこない。

 コロナは今年も大きな問題であったが、書くことが見当たらない。20万人を上回る感染者が出て、毎日500人近い人が死んでいるというのに、国の対応が何も示されていないからである。

 感染症は自然に収束するまで放っておくということなのであろう。国は感染症に対して無力であることが明らかになった。

 中国では感染が拡大しているようだ。ゼロコロナ対策をもってしても感染は防げなかったらしい。それだけ感染症というものは厄介なものなのであろう。

 安倍元首相が祖父の代から旧統一教会と関係があったとは驚きであった。

 霊感商法と指摘され、人の不安や弱みにつけ込んで信者の金を騙し取ってきた宗教団体となぜ関係を続けていたのか。そのことが全く問われていない。

 そして国会議員と旧統一教会との問題も事実解明がされていない。他国の宗教団体に、国政に関わる半数近い議員が関係を持っていたのである。

 旧統一教会の問題は献金の妥当性について国会で審議されたようだが、そのような団体と関係を持った国会議員の責任が全く問われていない。国の情報が献金の謝礼として漏れていたかもしれないのだ。

 悪いことは摘発され、糾弾され、淘汰されるものと思っていたが、そんなことはないことを旧統一教会問題は社会に示すことになった。

 団体として生き残るために信者から金を巻き上げ、その金を政治家にばら撒いて存続を保ってきた。実に簡単な図式である。なぜそんな簡単な図式に政治家たちは乗ってしまったのか。軽率であったで済まされることではない。

 このところ岸田内閣の閣僚の辞任が相次いだ。いずれも旧統一教会問題と同じレベルでの問題である。こんなことも分からないで政治をしているのか、というあきれるほどの有様である。

 しかしそんなことは分かっているのである。みんな優秀な人たちばかりである。ただ政治家になると儲かる、ということに関心があったというだけのことなのである。

 ジリ貧ニッポン。しかしこの国に暮らす者、がんばれ日本というべきであろう。子供たちの世代は今まさに社会の中核である。
 孫たちもあと10年もすれば社会の一線に出る。

 年始に向けて祈ることができるとするなら、子や孫たちが安心して生きていける社会であってほしい、と願うばかりである。いつの時代も去りゆく者はそう祈っていたはずである。(了)

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