九州大雨による死者は7人になったと報じられている。気の毒なことに九州地方は毎年のように大雨による被害が起きている。
3年前に熊本豪雨があった。球磨川が氾濫し、老人ホームのお年寄りが何人も亡くなった。熊本地方は熊本地震の被害の中での更なる被害だった。
この豪雨による被害者を想い、球磨川に向かって「もう暴れないで」と祈る人々の写真が掲載されていた。撮影の日はこの7月4日になっている。それからまた豪雨である。なんということだろうか。
岸田総理が九州大雨の記者会見を15分で終えて、六本木にステーキを食べに行った、という話が伝えられている。国会が終了したことの慰労会だそうである。
大地震などの災害の場合、大臣が背広姿で記者会見すると批判されるが、取ってつけたような作業服を着ているより背広姿の方が、とるものもとりあえず駆けつけた、という感じが出ていいのではないか。
高価なイギリスの背広にイタリアの革靴で被災地を歩き回れば、大変な人気が出るのではないかと思うが、取り巻きが反対するのかそういう姿を見ることがない。
袴田事件が静岡地裁で事実審理になるらしい。検察が有罪を立証すると言い出したためだ。60年も前のことをどうやって証明するのだろうか。
事件の真実は誰にも分からない。当人もほとんど覚えていないのではないか。法律としては間違ってはいない。しかし法律の能力を逸脱している。
裁判は、真実は分からない、ということを前提にしているものである。
分かりようもない真実を、事実の認定という作業に置き換える手続きである。
事実認定のやり方次第では、ありもしない事実が法律上存在することになる。
事実が存在しないという認定は、事実が存在したとしても存在しないことを意味する。そこに共通するものは警察や検察の威信である。
証拠捏造はないと検察は言うがそうかもしれない。しかし証拠捏造と言われてもしょうがない、ということはあったかもしれない。
大阪で20代男性の誤認逮捕があった。知人の20代の女性に危害を加えるメッセージをインスタグラムで送ったとして、脅迫や強要未遂、リベンジポルノ防止法違反などの疑いで逮捕された。
本人は無実を主張したが、警察官や検察官から「お前しか犯人はいない」と脅され42日間勾留されたらしい。
結果は無実だったのだが、そのいきさつを私がここに書くことでもない。
問題なのは、取り調べが誤りであったことに対する検事の言葉である。「不正な点があったとは考えていないが。結果的に犯人でない方を勾留してしまったことは申し訳なく思っている」大の大人が言う言葉ではない。
こんなに不正(正しくないこと)なことをしていながら「不正な点があったとは考えていない」のである。
なぜそうなのか。法律の定めに従い、それを順守して捜査しただけのことで、法律違反はしていないと思っているからである。
疑わしき者を逮捕し、取り調べ、事実を明らかにするため42日間勾留し、警察としての職務を果たしただけである。
犯人と思われた者は無実であったが、調べたことの結果である、と言うのが警察、検察の言い分である。
誤診して患者を苦しめておいて、誤診でしたと言うのと同じである。
誤って人を逮捕拘留することが如何に不当なことであるか、いささかも意識していない。
「間違ったと言えば何でも許してもらえると思ったら大きな間違いだ」といつも言っているのは警察ではないか。
捜査においては、誤って人を逮捕勾留することは当然あり得ることと考えているようである。人を逮捕勾留することの重大性を認識していない。留置場にでもぶち込んでおけば、という認識しかない。
親の死に目にも会わせない。捜査はなによりも優先するものと考えているようである。有罪が確定するまで被疑者と警察は対等である。そんなことを警察官に言うと笑うようである。
誤認逮捕は警察、検察による犯罪と考えるべきである。誤認逮捕罪として、故意も過失も必要としない形式犯とするべきであろう。
人の人生をダメにしてしまう犯罪なのであるから、その違法性は殺人罪にも匹敵すると言ってもおかしくない。それに見合う罰条をもって刑法を改正するべきだと思う。
権力を有する者には最大の注意義務が課されるとしなければ均衡がとれない。そうしないと冤罪も誤認逮捕も防ぐことができない。
20年ぶりかで「12人の怒れる男」を女房と一緒に見る。昭和で言うと32年のアメリカ映画である。
なんで12人の男が怒っているのか分からない。確かに野球が見られないとか、会社の経営が大変でこんなことに時間を取られたくないとか、子供は親を馬鹿にするものだとかと怒っている人はいたが、そういうことなのだろうか。
私はよくできた面白い映画だと思うが、女房もそう思うところもあるようだが、少し私とは違う受け止め方をしている。
言ってみれば、この映画のシチュエーションというものが理解できないのではないかという気がする。
民主主義を理解することや、人間が生きていく姿勢について、この映画は格好な物語だと私は思っているが、女性はそんなことを考える必要もないと思っているようである。
これからの老後の生活が何年続くが分からないが、民主主義に対する理解の違いくらい済んでいればいいが、どんな違いがこれから出てくるか分からない。
ともかく女性は老後を生きていくのに男より向いているような気がする。(了)
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