公信力は国が責任を取らないこと

代書屋

 不動産登記制度は不動産の権利等に関する国の公示制度であるが、その公示している内容を、「信用してはいけない」、という珍しい制度である。

 なぜ、「信用してはいけない」のか。
 登記制度は、真実の権利関係を公示するものではないからである。

 しかし、「信用してはいけない」ということを登記所は口にしない。
 あまり大きな声で言えることではないし、できたら信用できるものと国民に誤解してほしいからかもしれない。事実、国民は登記を信用できるものと信じている。

 登記所の職員には、「信用してはいけない登記制度を仕事とすることに、プライドや生きがいを持てない」と嘆く人もいる。

 「信用してはいけない」ということは、登記の記載内容が誤っていたとしても、国はなんの責任も負わない、ということである。

 国が行った公示内容が間違っているなら国は当然責任を取るべきであるが、そんなことは全くない。「売主に騙されましたね。でも登記所のせいではありませんよ」、と笑っているだけである。

 登記制度が信用できないということはおかしいではないか、という指摘があるのは当然のことであるが、信用できる制度にしようということもない。

 登記を信用した者を保護しようとする考え方を、「登記には公信力がある」という言い方をする。現行の登記制度は保護しないのであるから、「登記には公信力がない」ということになる。

 公信力は遠心力とか表面張力のように、自然界に存在している「力」ではなく、あくまで人為的なものである。

 そもそも公信力と「力」という字を使うのがおかしい。制度を運用している国に、責任を取る気があるのか、ないのか、という話である。

 「登記には公信力がない」というのは原理を言ったことではなく、国は責任を取る気はない、ということを言っただけのことである。
 「登記には公信力がある」として責任をとる国もある。

 では、真実を公示しないことから、「信用してはいけない」という登記制度は何を公示しているのか、ということになる。

 「真実らしいこと」を公示していることになる。

 「真実らしいこと」を公示していて、登記制度の目的は達せられるのか、という疑問がわくが、「問題はいろいろ生じるだろうが、こんな程度でいいのではないか」、と定めたのが登記制度である。

 なぜ、国は登記制度を信用できる制度にしないのか。
 いろいろ理由は考えられるが、要は、信用できる制度にするのは国として面倒だ、ということのようである。

 「真実らしいこと」を登記して、それで問題が生じたならば、裁判でもなんでもして、当事者間で好きなように解決してくれ、というのが登記制度である。

 ゆめゆめ登記すれば国が権利を守ってくれるなどと考えてはならない。(了)

 

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