公信力は国が責任を取らないこと

代書屋

 不動産の権利(主なものは所有権ということになりますが)は、登記をすることによって取得するものではなく、社会生活において土地を売買したり、建物を新築したりすることによって当然に取得するものです。

 結婚は届け出をしないと成立しません。いくら夫婦として生活していても夫・妻になることはできません。このことは法律に定める夫・妻としての法律上の利益を受けられないということを意味します。届け出をしないと同じ布団で寝ることができないということとは別です。

 不動産の権利は法律(登記)に関係なく権利者は権利者ですが、ただ登記をしないと第三者に権利者であることを対抗できないということになっています。

 自分の権利を登記しなければ第三者に権利者であることを対抗できないというのであれば、登記をしなければ権利者になれないということと同じではないか、という疑問を持つのは当然です。

 しかし登記をしないと自分の権利を対抗できない第三者というのは、世間の人全部を言うわけではなく、自分の権利と相いれない権利を持っている第三者に対して、ということになります。

 「対抗できない」と民法が定めていて「主張できない」と定めているわけではありません。対抗とはそういう意味になります。

 自分の権利と相いれない権利を持っている第三者とはなんだ、という疑問が湧きます。例えば登記簿に所有者と記載されているAさんから土地を買ったとすると、どんな場合に自分の権利と相いれない権利を持った第三者が現れるのでしょうか。そんな第三者はいないようにも思われます。

 それが現れるのです。Aさんが他の人にも同じ土地を売っていた、というのがよく引き合いに出される事例です。いわゆる二重譲渡という奴です。

 この場合Aさんが、最初に買った買主より後に買った買主に登記を移転するとその人が権利者となり、いくら先に買った人が「自分が先に買った」と主張してもダメなのです。

 ふざけた話ではないか、ということになりますが、ふざけた話なのです。売買契約はひとつの土地を何人もの人に売っても有効です。要は誰との契約を履行するかということです。

 Aさんは横領罪とか背任罪といった罪に問われますが登記は有効です。最初に買った人はAさんに当然損害賠償請求ができますが、登記を得ることはできません。

 なぜこういう扱いになるのでしょうか。契約は守るべきものです。しかし取引社会というのは守らないのです。
 最初に売った価格よりもっと高く買うという人が現れたら、そっちに売ります。現実の取引社会というものは汚いものです。

 当然裁判ということになりますが、裁判所もどっちが先に買ったか分かりません。二重に土地を売るような売主ですから契約書などどのようにも作り変えられます。

 理屈からすれば先に買った人が権利者です。しかしそれが判明しなければ裁判しようがない。そうことでは裁判所の権威というものが落ちます。

 そこで一律、どっちが先に買ったかという主観的なことではなく、どっちが先に登記をしたかという客観的事実で決着をつけることにしたのが、「登記をしなければ第三者に対抗的ない」という意味です。

 民法というものは国民の正義のためにあるものではなく、裁判官の便利のためにある法律です。
 判断できないような争いを裁判に持ち込んで、お上の手を煩わせるな、というのが民法てす。

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