兄は私が結婚してからしばらくしてお見合いをした。相手は東京の下町を牛耳るテキヤの親分の娘さんである。
その娘さんを紹介した人は、むかし私たち家族が居候をしていた家の隣で、洋品屋を営んでいた人である。
もともと油の行商をしていたらしいが、ある未亡人の家に入り込み、いわば家族ごと乗っ取ってしまったという、やり手と言うか、男らしいと言うか、齊藤道三のような人である。そういうことのよくある時代であった。
テキヤということではなく、町内会のつながりで子分のような関係になったらしい。父のいない私たち兄弟にいろいろ目をかけてくれた。
テキヤの親分の娘であるからよくないということはない。私も一度会ったことがあるが、髪の長い、美しく、気立てのようそうな娘さんであった。兄は一目で好きになったらしい。
それから数ヵ月後、兄はひき逃げ事故にあってしまった。
東京女子医大病院の脳外科に運ばれ、2回の手術によって兄は意識を取り戻した。
テキヤの娘さんは入院中一度見舞いに来てくれたことがある。兄は本当にうれしそうであった。
娘さんが帰る時、兄はベッドに横たわったまま娘さんに手を差し伸べた。娘さんはそれに応えていた。娘さんはそれから病院に来ることはなかった。
私は短い時間であったが、その娘さんをそれとなく観察した。兄のことを思ってくれている人であるならなにか顔の表情に出るはずである。
しかし私の目にはごく儀礼的な見舞いに過ぎない、としか見えなかった。
この人は兄と結婚する意志はないと私は思った。
退院してから娘さんへの想いを聞いたことが一度もない。怪我した体となっては結婚をあきらめるべきと考えたのか、最初から憧れだけだったのか。
あのベッドから娘さんに握手を求めたのは、想いを告げ、想いを断ち切るために彼女の手に触れたかったのかもしれない。彼女の手に触れたのはあの時が最初だと思うのである。
ただ諦めるだけの二度目の恋であったようだ。兄に会えることがあったらあの時の気持ちを聞いてみたい。
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