人生2つのターニングポイント(プロローグ)

つぶやき

 2月14日で76歳になる。早生まれなので、同級生の大半は今年77歳になるということになるが、私は今年一杯76歳で済ますことができる。

 76歳という年齢は半端な数字であるが、新しい年齢に何か思いを託したい気持ちがある。昨年の入退院や鬱などの、思いもしなかった体の変調がそういう気持ちにさせるのであろう。

 人生には振り返る時期がある。振り返ることで人生の成功をかみしめる人もいるだろうし、「振り返りたくもない」、とキッパリ言う人生があることもときどき耳にする。

 ときどき人生を振り返るときがある。人生に成功したから、ということではなく、私の学歴などからすればできるはずもない生活をしてきたからである。

 できるはずもない生活とは、特別裕福な生活のことを言っているのではなく、普通の生活のことである。

 私が思う普通の生活とは、一戸建ての家を持ち、子供を大学に通わせ、普通の大学を出て普通のサラリーマンになった人が手にする退職金に相当するくらいの老後の貯えを持つことである。

 私の人生に普通の生活ができるようなスタート台は存在しなかった。何の努力もしなければ、小さな会社に入り、一生そこか らはい出ることはできなかったであろうと思っている。
 私にとっては普通の生活を送れることが豊かな生活なのである。

 私の人生を普通の生活ができるものにしたのは不動産業の世界である。
 私は学業後、自分が好きな音楽に関連する会社に就職したが、仕事の面白さはさておき、このままではダメだと思うようになった。
 仕事にスケールの大きさがないのである。音楽は趣味でいい。

 そこで知人に紹介を頼んで、建築会社に転職した。
 直観として、大きなお金が動く世界に身を置かなければ社会のことも分らないし、自分の将来に何のプラスにならないと考えたのである。昭和46年のことである

 この建築会社については以前このブログに書いたことがあるが、一部上場会社とは言え、飯場に会社の看板をつけただけのような実態で、社員を使い捨てにするような荒っぽい会社であった。

 しかしその会社を通じて私は不動産の世界に足を踏み入れ、社会の動きというものを知ることになった。それは間違った選択ではなかった。

 それから会社を2度変えた。いずれも建築不動産関係である。
 しかし中小企業というところは経営者のためにあることを知った。
 社員もそんな会社にしか就職できない人ばかりであるから従順である。

 社員は15万くらいの月給で、社長や役職者は当時2,000万を超える年収をとっている。そんな経験が、起業するような度胸もない私に踏ん切りを与えることになった。

 35歳で不動産屋を始めた。バブルはすでに始まっていたのかその前夜だったのか、仕事は順調にいった。40歳の頃、バブルの絶頂期だったのであろう、

 町の小さな不動産屋にまで大きな金が舞い込んできた。連日銀行の支店長がやってきて、資金をいくらでも出すから土地の買取転売をやったらどうか、と勧める。

 私は土地転がしに手を出さなかった。このバブルの行きつく先にとんでもないリアクションがあるだろうと予想していた。私はあのバブル期に1銭の借金もしなかった。

 平成2年、総量規制とともにバブルは崩壊した。
 銀行、証券会社、不動産会社が何社も倒産した。あの支店長たちの姿を見ることがなくなった。北のはずれの支店に転勤になったという。
 ここから失われた時代が始まることになる。

 私は貯えた金で食べつないだ。借金をしなかったことはなによりよかった。しかしその金が何年ももつわけはない。当たり前だが、収入のない貯えは減るのが早い。

 すぐに景気は戻るだろう、今年だめなら来年は大丈夫だろうと思っていたが、一向に不動産の景気は回復しない。金融機関の破綻が連日報道される。都内の不動産は全く動く気配がなかった。

 知り合いの不動産会社の営業マンから、郊外の住宅は結構売れているという話を聞いた。郊外に会社を移すのも面倒だなと考えているうち、資格を取ることを思いついた。
 この資格があれば不動産の景気が回復するまでこの資格で食いつなぐことができるのではないかと思った。(続く)

 

 

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