人生2つのターニングポイント(完)

代書屋

 受験勉強を会社の机で始めた。1回の受験で資格はとれると思っていた。客も知り合いの業者も来ないから勉強の環境は万全である。
 1年近く準備して予備校の直前模試を受けたらトップだった。

 楽勝間違いなしと思って本試験を受けたが全く歯が立たなかった。2次試験を受けることなく退室してしまった。

 2年目、勉強の仕方を組み立て直すにもそのきっかけがつかめない。前年と同じように準備をしたがうまくいっているとは思えない。

 試験当日、妻の作った弁当を持って試験会場の早稲田大学に向かったが、試験会場に入らなかった。自信もなく、ボールルペンのインクが溶け出すような暑い試験会場に入る気にはなれなかった。

 早稲田の教室にはエアコンがない。妻には受験しなかったとは言わなかった。弁当は遠く東西線の行徳の港まで行って食べた。ここは母が住んでいる町である。

 法律の勉強が分からない。法律における理論ということに気を取られている。
 法律における理論とは何か。堂々巡りばかりしていた。

 ある日妻から、「これからどうして生活していくのですか、もう貯えはそれほどありません」と問われた。

 娘は大学に入り、息子は大学進学を控えている。つらい話であったが、何も答えることができなかった。
 
 敵前逃亡した受験2年目の暮れ、いつものように朝風呂に入って股のあたりを洗っているとき、ある表が頭に浮かんだ。それは民法における申立権者を表にしたものである。

 禁治産宣告や不在者の財産管理人などの申立権者には、本人とか四親等内の親族などと共に検察官が入っているが、失踪宣告の申立権者には検察官は入っていない。
 以前はこのような表をただ暗記しただけであるが、なぜ入っていないのか考えてみた。

 禁治産宣告など、申し立て権者に検察官が入っている制度は、本人を保護するためのものである。
 失踪宣告は失踪している人を死んだことにする制度である。
 考えられる結論は一つしかない。

 帰りを待っている家族がいるというのに、国の機関である検察官が申し立てをして、死んだことにしてしまっていいのだろうか。それはどう見てもおかしい。
 そしてこれは理論でもなんでもない、「都合」であることに気がついた。

 すべてはここから始まった。法律に理論などなかった。あるのは都合である。今までまとめたノートをすべて都合という言葉を基礎にして読み直してみた。

 なんのことはない、法律はすべて都合からできている。深遠なる法律理論というものは存在しない。

 登記を対抗要件とするのはそれが国にとって負担もなく、都合がいいからである。

 男女の関係を目的として金を払うとした約束は無効である。そんなことに国が力を貸すわけにはいかない。

 傷害罪は相手がケガしなければ成立しないが、公執行妨害罪は椅子を蹴とばしただけで成立する。お上にたてつくような行為は、お上の権威が保てず都合が悪いからである。

 なにか頭を覆っていた靄が晴れた感じである。法律学に理論はない。
 これが私の人生の第1のターニングポイントであった。

 3年目の受験の年妻に、今年は必ず合格する、と伝えた。
 事務所に泊まり込んで朝6時から夜の12時近くまで、まとめ上げた論点の確認をし、夜はしっかり寝るようにした。

 1週間に1回ほど、駅と事務所からそれぞれ歩き始め、出会ったところで洗濯物を妻に渡し、妻から洗濯物を受け取り、そしてそれぞれ来た道を戻った。そんな生活を試験前3カ月続けた。

 答案練習会も合格者を輩出している予備校に変えた。模試ではトップはとれなかったが合格圏には入っている。

 受験前日も事務所に泊り、朝コンビニでおにぎり2つを買い、試験場である早稲田大学に向かった。

 受験番号は6000番台まで表記されていた。合格者は110人である。2パーセントを切っている。
 私の受験番号は3000番台であったが、合格発表の時3000番台の合格者は2人しかいなかった。自信のある人は若い番号をとるものらしい。

 合格した。B4のコピー用紙に110の受験番号が張り出されてあった。私の番号があった。

 普通は開業する前に研修を兼ねてどこかの事務所に勤めるのだが、私はいきなり開業した。

 親しくしている不動産会社の営業マンをたくさん知っているから、仕事は最初からあるだろうと期待していた。

 ところが仕事はこなかった。親しい人から仕事がこない。私と一緒に仕事をして成績を上げたことから私に感謝しているという営業マンからも仕事がこない。

 彼らに「なぜだ」と聞くと、特定の人に便宜を図っては、会社内での自分の立場が悪くなる、ということであった。営業マンなるものはそんなものであった。

 その後、すこしずつ仕事が入るようになったが、とても家賃を払って食べていけるような収入ではない。

 ある日以前取引したことはあるが、あまりいい印象を持てなかった大手不動産会社の営業マンに話をした。
 彼は私が資格を取ったことに驚き、全面的にバックアップするという。同じ不動産業界にいた者が超難関試験に受かったということをとても評価してくれた。

 彼はすぐにその会社の全支店に私を紹介してくれた。おかげで私はその会社の全店舗を任されるようになった。開業して半年もたない頃のことであった。

 大きな会社の仕事をしていることで、次から次と仕事が舞い込み、連日夜12時近くまで仕事をすることが20年以上も続いた。

 友人とは何かと思う。親しい友人からは仕事はこなかった。私に仕事をくれたのは親しい友人ではなかった。

 詳しくは知らないが、彼は高校時代から優秀な人であったらしい。家庭の事情で大学進学をあきらめ、東京電力の保安要員からいろいろ職を転々としたと聞いた。私より2つ年上であった。
 同じ不動産の世界にいた者が試験に受かったことを本当に喜んでくれた。

 彼の息子さんは開成高校から東大法学部を出て、日本のトップというべき大企業の、それも本家と言われる会社に就職している。
 15年ほど前パーキンソンを発病し62歳で亡くなった。

 私の人生における恩人であり、私の第2のターニングポイントというべき人である。
 私が不動産に関わることの直観が間違っていなかったことを証明してくれた人である。(了)

 

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