人生の意味は堂々巡り

つぶやき

 これだけ自分の親や兄弟を含めて知人の死というものに遭うと、人間なんのために生きているのか、なんのために生きてきたのか、といった人生の意味論に迷い込んでしまう。

 このブログは私の家族も読んでいるからあまりネガティブなことは書きたくないが、この歳になったからか、人間なんのために生きているのかという疑問を、若い頃考えたこととは違って、自信をもって周囲にはばかることなく口に出すことができる。

 人生は生まれてから死ぬまでのことだが、生きることには苦労や災害が多く、死ぬことは自分にも周囲にもつらすぎる。
 生きてきたことが無駄なことのように人は死んでいく。生き残った連れ合いには悲しみしか残せない。

 「人生無駄ということはないだろう」という指摘があるのは承知だが、果たしてそう言い切れるだろうか。何があるというのだ。結局人生には悲しみや苦しみ寂しさ、認知症というものしか残らない。 

 中野信子という脳科学者は、脳科学的見地ではあらゆる生物の根本原理は「生き延びようとするためのシステム」であり、「人間はただ生きているだけで 生きることになんの理由も意味もない」と言う。さすが科学者明快である。

 ところがオチをつけたいのか、よせばいいのに続けてこんなことを言う。
 「生きる意味が最初から与えられていないのなら、あとから自分でどんな意味づけをすることも許されている」

 「生きる意味は楽しむことにある。生まれてきて良かったと、死ぬその瞬間に思うために生きているなど、好きなように決めていいということです。本来は自分の人生なのですから自分の好きにしていいのです。まったく自由に生きていいのです」

 チョイとおばさん、何バカなこと言っているんだと言いたい。好きなようにできない人生であるから生きる意味を問うているのではないか。

 この人は自分の配偶者を失ったり、自分が病気で苦しんだときどう考えるのか。「自分の好きに」できるということなのか。

 「生きる意味は楽しむことにある」というのは嘘だと思う。「人生には意味がないから楽しまなければ損だ」、というなら理解できる。

 しかし、「人生には意味がないから楽しまなければ損だ」と考えるのもむなしい。人生は意味があるものであってほしいのである。

 人生論はいつも堂々めぐり。

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