30代の半ば頃、町の小さな不動産屋さんで働いていたことがある。
あるとき、経理を委託している税理士事務所から「顧問先の客にこんな話があるのだが」と土地の相続に絡んだ売買の話が持ち込まれた。
早速紹介された人に連絡を取ると、「渋谷の109の裏にある200坪ほどの土地を兄と妹と私の3人で相続したが、兄が土地について単独相続を主張して私たち姉妹の相続を認めない。私と妹は土地を売却して現金を得たい」ということであった。渋谷109の裏の土地。大変な価値がある。
私は、相続人はいつでも相続財産の分割請求ができることを説明し、お兄さんが応じないときは裁判で正当に分割請求ができることも説明して、改めてお兄さんと話し合ったらどうかと勧めた。しかし、「そんなことを兄に言ったら怒られてしまう」、ということから、では私がお兄さんと話し合ってみましょう、ということになった。
裁判の話が効いたのか、今まで何がネックだったのかと不思議に思うほど、お兄さんという人はいとも簡単に分割に応じた。土地を1対2の割合で分割し、3分の2は晴れて妹さん2人の所有となり、売却することになった。
土地の売却に向けていろいろ準備しているとき、「昼食でも差し上げたいので社長さんと一緒においでください」とご招待を受けた。鷺ノ宮にある立派なお屋敷である。2人姉妹のお姉さんのご自宅であった。私はこの招待を予想していた。
当日社長さんと一緒に訪ねてみると、それぞれのご主人が応対され、「妻たちがいろいろお世話になりました。お陰様で相続した土地を売ることができるようになったので、売却については取引先の信託銀行の不動産部や大手の不動産会社に依頼することにしました。これはほんのわずかですがお礼です」と熨斗の付いた封筒が差し出された。
私はこの話を予想していた。町場の、どこの馬の骨とも分からない不動産屋に何億にもなるであろう土地の売買を依頼するはずはない。兄との問題が解決すればもはや町の不動産屋などに用はないということになるだろう。
一緒に行った社長さんは、「そりゃあもう仕方のないことで」と了解してしまった。物分かりのいいことが誠実と思っている人である。
そこで私は予定していた話をした。
信託銀行や大手不動産会社に依頼されたのであればそれはそれでいいが、大変失礼だが皆さんにしてみれば1銭でも高く売れればいいということではないでしょうか。そうであるならその信託銀行や不動産会社と私を競争させたらどうでしょうか。不動産の取引において危険があるのは買う場合のこと。売る場合は代金と引き換えに引き渡せば済むことであるから誰がやっても危険はない。
すると、ご主人の後ろに座っていたお姉さんの目尻がキッと吊り上がり、「それはどういうことですか」、と私に尋ねてきた。
私はゆっくりとさらに次のような話をした。
不動産の売却に際し一番難しいのは「いくらで売るか」ということである。特にこのような繁華街の土地についての評価は難しい。欲しい人はいくら高くても欲しいし、価値が低ければ値踏みされる。
しかし売主には欲がある。買主が現れれば、もっと高く売れるのではないか、という疑心が常にあり、きりがない。
しかし信託銀行などの場合、定価を定めなければ動かない。依頼人の利益より銀行の信用とかメンツをなにより優先させる体質である。売主がいくらなら売るか分からないなどという不動産の売却を扱うはずはない。必ずこれが適正価格と言って売りやすい価格を押し付けてくる。
しかし当社はそんな信用もプライドもメンツもない。吹けば飛ぶような会社であるからどこにだって入っていける。渋谷という場所だけにラブホテルだろうとソープランドだろうと競り合わせて、一番高く売ることができる。
私の独演会であった。皆さん私の話に聞き入り、特に私に説明を求めたお姉さんはラブホテルという言葉に反応した。「そうよ、なんだっていいから高く買うところに売ればいいのよ。ラブホテルにでもなれば隣地の兄の土地の価値も下がり仕返しができる。あなたの言う通りよ」と全員私の提案を承諾した。私は熨斗袋を社長さんの手元から先方側に戻した。
お姉さんという人のご主人は日本のトップクラスの商社のOBであり、その時経営コンサル会社の社長で60代。妹さんのご主人は銀座で宝石商を経営している50代の人であった。お姉さんは60歳くらい。妹さんは50代半ばという人たちで、お二人ともなんとかという名門女学院のご出身らしい話が会話の中にあった。
この売却話を最後まで書くこともないが、結果は私が紹介した買主が最高値を付けた。買主はラブホテルでもソープランドでもない。私にはそんな客はもともといない。
売買の決済がすべて終わり、お姉さんのご主人から招待をいただき、新宿の中華レストランで昼食をご馳走になった。その席で「いろいろご迷惑をかけ、大変お世話になった。ぜひあなたに受け取ってほしい」と言って、あの熨斗袋を内ポケットから取り出した。
会社として充分な報酬をいただいておりますと辞退したが、あなたへの謝礼ですと言う。私はただ自分の仕事をしただけですが、と言うと、「あなたにうまく乗せられた、その謝礼です」と言う。さすが元商社マン。分かっていたようだ。私はありがたくいただいた。
不動産屋は人生を知る格好の職業である。
人生食べていくには人の欲に寄り添わなければならない。そして、食べていく時代を乗り越えたら、人生とは愛する人に寄り添うことである。(了)
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