リベラルがいなくなったわけではない

つぶやき

 高市首相はなぜ夫婦別姓、同性婚に反対なのだろうか。女性としてイの一番に賛成していい問題だと思うが、なぜ反対なのか。

 高市さんが目指すものは「強い日本」。単純に考えれば、そうであれば夫婦別姓、同性婚は「強い日本」に対して好ましくないものだから認めない、ということになる。どうして好ましくないのか。

 同じような問題に、国旗・国歌の尊重、教育勅語の奨励、教育基本法の改正、家制度の復活がある。これらに共通することは「勝手なことは許さない」ということ。

 勝手なことは許さないというのは、こっちの言うことを聞けということである。「強い日本」にはいろいろな意味があるが、「こっちの言うことを聞け」ということではないか。

 どうも保守右派には戦前回帰の願望があるようだ。それは「一つにまとまる日本」。「天皇を中心にして」が文頭にあってもいい。ひとつにまとまることが強い国だと思っているようだ。

 自民党の悲願は自主憲法の制定。しかし国民は戦後の民主教育に慣れてしまい、自由を謳歌し多様性を主張し、自分勝手、好き勝手な国民になってしまった。憲法改正に賛成と言いながら強い日本にするための政策には無関心。

 一気に自主憲法制定は無理として、まとまりのある日本を作らねばならない。

 国家が「まとまり」を強調するとき、そこには必ず多様性の抑制、異論の萎縮、空気による統制がセットとなる。

 戦前の日本がそうであったように、国家が「国民精神の統一」を掲げると、個々の生活や価値観は背後に追いやられ、「国のためにどうあるべきか」が優先されていく。

 現代の日本はもちろん戦前とは制度も社会構造も違うが、「国のために一致団結」という言葉が政治の中心に置かれ始めると、社会は単一化の方向へ傾く。

 国歌斉唱や儀礼の「強制」は意思形成の装置になりうる。国歌斉唱や国旗掲揚そのものはどの国にもある儀礼だが、問題は、それが「強制」や「同調圧力」と結びついたとき。

 儀礼は本来、「自然に共有される価値」だが、強制されると「国家への忠誠を測るリトマス試験紙」に変わってしまう。

 そして、儀礼の強制はゆっくりと、しかし確実に「異論を言いにくい社会」を作っていく。

 今後、同じ方向の強制が強まるのか。いくつかの兆候はある。「国を強くする」という言葉が、経済政策だけでなく精神論と結びつけられ始めている

 教育現場での儀礼の扱いが政治的テーマになっている。
 メディアや文化の領域で「国益」や「国の誇り」「日本という国の素晴らしさ」が強調される場面が増えている。

 政治家が「国民の意識改革」という言葉を使うようになっている
 これらはすべて、国家が国民の「心のあり方」に踏み込もうとするときに現れるサインである。

 歴史的なパターンとしては、国家が「強さ」を掲げるとき、社会は多様性より統一へ傾くという傾向がある。そしてそのとき、最初に変わるのは法律ではなく、儀礼・教育・空気といった、目に見えにくい領域である。

 投票先がないからといって無暗に自民党に投票するものではない。

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