きのう、久しぶりに田中真紀子さんを拝見した。車の運転中のことでもあり、あまり見たくもない人なのでチャンネルを変えた。
確か、すでに旦那さんと共に政界を引退したはず。80才を越えていると思うが、元気そうに見えた。
今朝のネットで、彼女らしく威勢よく啖呵を切っている様子が良く判ったが、小泉進次郎氏を批判できるほど中身のある人ではない。この人も親の七光りで、なにか勘違いして生きてきた人である。
人は人を攻撃するとき雄弁になるが、その雄弁は優秀ということではない。
世間は彼女の啖呵のような言葉を称賛するが、なにか主張があるわけではなく、人の悪口を言うだけであるから受け入れやすい、というだけのことで、まともに受けてはいけない。父親の金権政治こそが政治の本流と思い込んでいる人である。
田中真紀子さんはパワハラの先駆者である。外務大臣などを歴任したが、そこら中でパワハラを行ってきた。今なら議員懲罰事件である。
斎藤知事に対して批判をしていたが、昔の自分である。テレビなどに出ない方がいい。
斎藤知事に対する百条委員会の追及には厳しいものがあるようだが、果たして詰め切れるだろうか。斎藤知事には余裕も感じられるように見受ける。
委員から道義的責任を感じているかと問われると、「道義的責任が何かわからないので、明確にコメントできない」と語った。
「道義的責任が何か分からない」と言う言葉は、普通の人が口にできることではない。私もこの言葉をはじめて聞いた。
「あんたのせいで人一人死んでいるのだ。悪いと思わないのか」というのが、道義的責任を問う時の決まり文句である。
斎藤知事は「私のせいで死んだのではないから、悪いとは思わない」と応えている。
道義的責任が何かは分かっているが、この件で道義的責任を問われる意味が分からない、と言っているのである。普通の人なら返答に困り沈黙である。
素晴らしいとしか言いようがない。
逆に道義的責任を口にした委員の、頭の程度が分かる質問である。
道義的責任というのは、それを言い出した方が負けである。攻める材料がない時に言う言葉だからである。
百条委員会は斎藤知事を追い詰める材料を持っていないことを露呈したようだ。
しかし、「まるで独裁者が反対者を粛正するかのような陰惨な構図を描いてしまった」とある大学教授は言っている。
「陰惨な構図を描いてしまった」ならば、斎藤知事の責任は論ずるまでもなく明白なはずだか、なぜここまではっきりさせることができないのか。
やはり優秀な人なのである。斎藤知事の肩を持つ気はないが、彼の論ずるところを見届けてみたい。
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