ケチになった

つぶやき

 もともと気の小さい男であるから、仕事をやめたらケチになることは分かっていた。
 しかしこれほどケチになるとは思っていなかった。私のことである。

 仕事をしているときは湯水のように金を使ってきた。出っぱなしの湯水ではなく、洗い桶に貯めてのことである。出っぱなしにするほどの度胸はない。

 仕事が連日こなしきれないほどあったから、今日使った金は明日稼げばいいという気持ちである。いっぱしの江戸っ子気分であった。

 今、毎月の生活費がいくらかかるのか、実のところあまり把握していない。
 すべて女房まかせである。

 しかし収入がないということは出っぱなしということであるから、女房まかせといっても、出っぱなしであることについての心配はある。

 出っぱなしのままにするほどの貯えはないから、なるべく出るものを抑えるしかない。
 普通に言えばケチ。よく言えば無駄遣いをしなくなった。
 もっとよく言えば、考えて物を買うようになった。そして、考えてもなにも買わなくなった。

 人が好きなように人間らしく生きていくには、年収にして2000万円くらいは必要だと思う。2000万に根拠があるわけではない。
 普通の生活では考えられないような金額を挙げないと、豊かな生活というものが想像できないからである。

 年収2000万円の生活。夢のような生活であるが、お金の額で生活のレベルを例えれば、これが人間の本来の生活ではないだろうか。

 近所で年収5000万だ、1億だという人がいるが、ここまで収入があると人は欲が深くなる。

 サラリーマンの平均年収は441万円だとネットにある。
 50代前半で700万円。
 700万円あれば何とか、という気になるが、月50万円の生活費とすればたいした額でもない。

 月50万円などの高額な生活費は要らないと思う人は多いだろうが、それはそのような生活を強いられてきた普通の人の習性である。

 50万の生活では、食べて寝て、育てて学校に行かせて、それで終わりである。
 しかしそうは言っても月50万の生活費はやはり現実的ではない。
 
 日本の社会は、まともに生きてきた人たちはまともな仕事にしかつかない。
 「まとも」という言葉は誤解を生むが「普通」という言葉と同じである。

 水商売とか不動産業というのはまともな仕事に就けない人の選択であった。
 水商売とか不動産業を馬鹿にしているのではない。
 まともな仕事に就けないのは、社会が要求する学歴を持っていないというだけのことである。

 しかしお金持ちになるのはまともな人ではない。
 まともな人がまともな会社に入って社長になるということもあるが、社長になるのは数千人または数万人に1人の確率である。

 まともな人たちは平均年収の中に組み込まれる。普通なことをしていたのではお金持ちになれない。

 相変わらず老後の貯えについて週刊誌などが取り上げている。
 1億円以上の金融資産を持つ世帯を富裕層、5億円以上を超富裕層というらしいが、思った以上にこれらの富裕層は多い。

 富裕層の中にサラリーマンはどのくらいいるのだろうか。多分いないのではないか。
 富裕層とは昔から大金持ちは別として、不動産業などの商売をしてきた人たちである。
 まともでは富裕層になれない。

 まともな就職ができないから不動産屋になると富裕層になる。
 やっかみと言われればそのとおりであるが、近所の不動産屋を見ているとどうしても納得できないものがある。

 まともな人たちが富裕層を形成するのが、まともな社会ではないかと思う。

 ケチにならざるを得ない。
 ケチになって生活が維持していけるならいいが、一人住まいの女性とか年金だけの生活者には、これからの生活は一層苦しいものになるのではないか。ケチでは間に合わないことになる。政府は自己責任と言う。

 ひと頃、もう品物は日本で作るのではなく中国を日本の工場として生産させ、日本は技術を売ればいいとしていた。

 そんなうち中国に何もかも追い抜かれ、今度は中国がベトナムやタイなどを自国の工場にするようになった。メイドインチャイナは高級品になった。

 世界の最貧国と言われるバングラディッシュ製の衣料品なども大分前から見かけるようになった。
 物を安く作るには人件費の安い国で作らねばならない。

 近いうち、何年も見かけることのなかったメイドインジャパンの品物が、安売り衣料品店や家電量販店に出回るのではないだろうか。
メイドインジャパンが帰ってくるのである。 (了)

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