「あなたは普通の子を持っているからそう言うのよ」という言葉を、むかし家内が近所の友達から言われたことがあるという。
子供が何かしたとき、「私ならこう注意する」と家内がその友達に言った言葉に、その友達が返えした言葉だそうである。
その友達には女と男の二人の子供がいるが、上の娘さんが私の娘と同じ歳で、幼いころから高校まで一緒であった。
友達の子供たちが普通の子ではない、ということではない。二人ともトップクラスの大学に進学した優秀な子供たちである。
普通の子供たちであるが、普通の子供達とはちょっと違う個性を持った子供達、ということである。
その娘さんも50歳になる。20代で結婚したが、何年かで離婚し、実家に戻り、今は母親との二人暮らしをしている。
離婚して引きこもりのような生活をしていたらしい。実家に戻ってから20年も見かけたことがなかった。
昨年お父さんが亡くなられた。その前後から我が家の近くで見かけるようになった。
私とばったり会えば必要以上に馴れ馴れしく話しかけてくる。私の着ているものを褒めたり、私が若くてハンサムだと持ち上げる。
家内が会ったとき、彼氏が欲しいという話をしきりにしていたようだ。
2,3日前、家の前で家内が娘さんに会った時、彼氏ができてこれからデートだという。50歳の女性。それもいいかと思うが、なにか心配である。
家内の友達が言う言葉を初めて聞いた時、考えさせられたことがあった。
私は自分の子を普通の子供として幼い頃から接してきたが、普通の子という認識を持っていたわけではない。普通の子であることは当たり前であるから、普通の子という認識を持ちようがない。
私は子供の個性というものを認めなかった。というより子供に個性があるなどということに関心がなかった。個性と言えば聞こえはいいが、要は性格である。
私は、子供はこういう性格であるべきだ、というものを押し付けてきたような気がする。
近所の家内の友達が言う言葉。なかなか深い意味を持っている。
娘さんは結婚生活が続けられず、50にもなって訳の分からない行動をしている。
息子さんは、一切夫の実家とは行き来しない結婚ならしてもいいという女性と結婚している。私に言わせれば、親の教育が間違っていた、ということになる。
しかし近所の友達と言う人に言わせれば、親の教育の及ばない所に子供の個性というものがある、ということになる。それは子供からすれば、自分たちを理解してくれる親の言葉である。
「私たちは普通の父親を持っていなかった」と、私の子供たちは思っているのかもしれない。
こういう視点を教えられた近所の知人の言葉である。
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