どうでもいいやと思わなければ

つぶやき

 孤独死した知人の後始末の事とか、弁護士が連絡をよこさないとか、相続の準備とか、このところいろいろ気になることが多い。

 気になることが多いのではなく、気にするから気になることが多いので、気にしたところでたいした問題ではない。

 しかし気になるという事は、たいしたことでもないのに気にしてしまうことである。2年前にすこし鬱のような状態になったが、つまらないことを気にしていた。

 鬱と鬱蒼は同じ字である。どういうつくりになっているのかと目を凝らしてみたが、老眼にははっきりしない。フォントを何倍にも拡大してみるとものすごい字であることが分かる。しかし何がなんだか分からない字である。

 「鬱蒼とした気分」というのは誤りだそうである。鬱のことを言うのであれば「鬱屈した気分」というべきらしい。

 イライラ感の解消には、「どうでもいいや」と思うことが一番いいと思うが、そうすんなりいくことではない。

 あまり「どうでもいいや」と思っていると認知症になってしまうのではないかと心配になる。適当に「どうでもいいや」と思いながら、たまに気にするくらいがいいのだろう。

 私は75歳まで働いていたが、健康のためとかボケ止めとかいうことではなく、自営であるから仕事をやめる必要がなかった。
 
 仕事をしていた時は気になることがなかったという事はない。私の仕事は不動産屋とのやり取りが多かったから、タチの悪い不動産屋と仕事をするようなことになると結構ストレスがたまったものである。

 ただそのストレスの解消は、「この人と2度と会うことはないだろうから、イヤなことは忘れてしまおう」ということで、一時我慢すれば済むものであった。
 
 しかし仕事をやめてからの「気になる」というのは、自分の気持ちの中から湧いてくるものであるから、あとからあとから出てきてキリがない。
 「どうでもいいや」と思っても、「本当にどうでもいいや」なことなのだろうかと思うこともある。そうなると胃のあたりがモコモコしてくる。

 気をつけなければいけない。歩きにくくなってから、それを改善することばかり考えていたが、どうもそれでは頭の中が鬱蒼としてしまう。
 楽しいことに興味を持っていかないと気持ちが鬱積してしまう。スーパーの店員さんを相手に鬱憤を晴らすような年寄りになっては最悪である。

 こう言っては鬱という字に申し訳ないが、高齢者は鬱という字に関係ない生活をしなければいけない。

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