言葉を考える

つぶやき

 「伝統を守るには常に変化しなければならない」、という言葉がよく使われるようになった。

 この言葉を説明するのにこんなことも言われている。「水鳥はゆっくりと静かに優雅に水面を進んでいるが、水面の下では絶え間なく水かきを動かしている」

 なるほどと思う。伝統が変化したら伝統にならない、というのが常識的な理解であるが、その常識を覆すような意表を突いた言葉である。人々はこの斬新な言葉に喝采し納得しているようである。

 しかしよく考えるまでもなくやはり何かおかしい。伝統は変化してしまったら伝統ではなくなるのではないか。

 変化によって守ったというものは伝統ではなく、いわゆる暖簾のことではないか。現代で言えば社名である。

 水鳥の例は「伝統を守るには常に〝努力〟しなければならない」ということを意味するもので、伝統を守るには常に変化しなければならないということではない。変化したものには伝統という言葉があるだけで、伝統は存在していない。消えているものである。

 うまい言葉というものは、結局うまい言葉ということしかない。

 比喩の誤謬(ごびゅう)という言葉がある。例え話は人に物事を伝えるとき効果的な方法であり、日本人は特に例え話が好きなようである。

 しかしその例え話が伝えたい内容を正確に例えているならそれでいいが、そうでない場合が多い。

 本人はうまい例え話を見つけそれを披露することに満足し、達成感まで感じている。
 自分の言いたいことは例え話で相手に伝わったものと錯覚している。
 昔の世間にはこういう人が多かった。

 たとえ話のトリックに注意しなければいけない。比喩の誤謬という言葉をいつも頭のどこかにおいて人の話を聞く必要がある。

 人の話が明らかにおかしな例え話であれば、即座に笑い飛ばさなければいけない。聞いてしまって、感心したようなふりをしてはいけない。
 若い人が良く口にする「言っている意味がワカンナイ」という言葉は、実に率直で適格な拒否の言葉である。

 例え話の話ではないが、以前小泉総理が、「人生には上り坂、下り坂のほかにまさかという坂がある」、と言って一人悦に入っていたことがある。

 その話は誰でも知っている使い古されたジョークなのだが、小泉さんはそのことを知らなかったようだ。話の前後の脈絡からして、まだそんなに知られていないジョークと思い込んでいたように見えた。

 総理になると世間の常識というものに疎くなるということだろう。そんな話はみんな知っていることです、と進言する側近もいなかったようだ。

 先日岸田総理が自分の息子の処分について記者にこう語った。「更迭だの交代だのという言葉の遊びではなく、けじめをつけるということだ」

 更迭だの交代だのというのは言葉の遊びでは決してない。けじめをつける、という方が言葉の遊びである。

 息子の問題は親子間のけじめの問題ではなく、国の制度における処分の問題であるからだ。岸田総理は「言葉の遊び」という言葉を使いたかっただけということだろう。

 細かなことにこだわるのも大人気(おとなげ)ないことだが、岸田総理の国会答弁などを聞いていると、この人は何をしたくて総理になったのか分からない。言葉に重みがないのである。

 権力者になることが人生の目的ということもある。安倍さんも危なっかしい人だったが、安倍さん以上に危ない人かもしれない。

 言葉の持つ力は大きいと思うが、国会の論戦などを見ていると言葉は無力だと思う。

 前の総理大臣だった菅さんは辞任に追い込まれたと言うが、国会での論戦において辞任に追い込まれたのだろうか。

 総理大臣に限らず国会議員の辞任というのは論戦の結果なのだろうか。そんなことがあるようには見えない。

 論戦の場ではメチャクチャなことを言っている。反省しているとは思えない。
 選挙の票に影響があると党の幹部が判断したとき、議員は辞任するのであろう。

 国権の最高機関に対する敬意でないことは確かである。(了)

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