子 供 の 日

つぶやき

 今日は子供の日であり、端午の節句である。
 子供の日は、男女両方の子供の成長や幸せを願う日と国が定めたものであり、端午の節句は男の子の祝いの日である。

 節句とは季節の節目を言うらしく、桃の節句や七夕の節句など5つあるらしい。端午の節句は5月5日ということになっていて、菖蒲の節句とも言う。

 端午の節句は昔から男の子の祝い日とされていたらしく、その日を子供の日と定め、国民の休日にしたことから、子供の日と 言えば端午の節句、つまり男の子の日という誤解になったらしい。桃の節句は女の子の祝い日であるが休日にはしなかった。

 端午の節句と言えば武者人形、こいのぼり、菖蒲湯、柏餅ということになる。男の子は威勢よく育ってほしいということからだろうが、鎧 兜、弓、 刀という武具が飾り物になる。

 私の孫たちには戦争などに関わることなく、平和な時代を過ごしてほしいと思ってきたが、2人とも今年は高校2年生である。

 お餅を担いだり、いろいろ節句の時にはしたのだろうが、過ぎてしまえばほとんど覚えていない。戦争に行かない時代を生きてほしいと思う。

 子供の日には少子化問題が取り上げられるのかなと、今日の新聞に目を通してみたが、全くどこにも記述はなかった。ただ子供の数が42年連続して減少しているという事実が報じられていた。

 少子化問題の原因はなんなのか、将来的にどう解決されるのか、されないのか、国民はみんな分かっていることである。分かっていることなのに日本の社会は動かない。なにごとも先送りである。

 どうしようもなくなれば福島原発の汚水処理のように、海洋投棄ということになる。 以前は海洋投棄はしないと言っていたはずである。少子化問題はどこに投棄するのだろうか。

 政治が深い考えもなく、手の内を明かして行っているのだから、それを批判することは難しいことではない。

 大学教授や評論家が政治を批判するが、いずれも的確で明快である。政治が明快におかしいことをやったり言ったりしているから、政治批評は誰でもできるものになった。

 先日ある大学教授の「理念なき祭り」とする新聞記事があった。あの東京五輪を、空虚なものであった、とした。

 復興もしていないのに「東日本大震災からの復興を世界に伝える五輪」。
 パンデミックになれば「コロナに打ち勝った証しの五輪」。
 恥ずかしくなる言葉である。理念がないゆえの言葉であると教授は言う。

 私もこの言葉を目にしたときはあきれた。政治とはこういうことを恥ずかしげもなく言うのかと。

 しかし今は少々考えが変わった。あの優秀な政治家たちが、これらの言葉の恥ずかしさに気がつかないはずはない。

 気がついていてもそれを口に出すのが政治だ、ということだろう。
 学者などは自己完結など、つまらないことにいつまでもこだわるから政治家になれないのだ。悔しかったら「コロナに打ち勝った証しの五輪」などと、恥ずかしさを我慢して口にして、国民を引っ張っていったらどうか。政治とは考えではない、行動である。

 政治家はそう考えているのだと思う。

 子供の日は希望の日である。いろいろ書いてもしょうがない。子供の日が希望の日であることに気がつかないほど、子供たちが輝いている子供の日であってほしい。(了)

コメント

タイトルとURLをコピーしました