たそがれをどうして黄昏と書くのか、黄昏をどうしてたそがれと読むのか不思議でしょうがなかった。
漢語に黄昏という言葉があり「こうこん」と読むそうだが、日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻をさすらしい。
以下はウィキペディアの引用である。
「たそがれ」は江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略である。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味である。
この風習は広く日本で行われた。「おはようさんです、これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされる。
なるほど面白い話だと思う。人の顔の識別がつかない夕暮れの暗さというものが妙に懐かしい。子供頃、本当に友達の顔が判らなくなるまで遊んだものである。
黄昏は当て字のようである。
黄昏という言葉を思い出すのは言うまでもなく、我が人生も黄昏を迎えているからである。
若い頃この言葉を使ったことがある。30代半ばに小さな建築会社に勤めていたが、上役の顔色ばかりうかがっている上司のアホらしに嫌気がさし辞表を出した。
その辞表に「黄昏の前に」とだけ書いた。
もちろんこんな会社にいたのでは人生黄昏れてしまうという意味を込めたのである。
後で聞いた話だがその会社の社長さんはこの字が読めなかったらしい。辞めてよかったのである。
つまらぬ会社のサラリーマンを辞めて、私の人生は陽の目を見ることになった、と思う。
陽の当たった話は別にして、しかし陽の当たった人生も黄昏となってきた。持ち駒全部使い果たしたが、まあまあ満足のいく黄昏時を迎えた。
少し黄昏を想ってみたいのである。とはいえ、思いついたのは映画「黄昏であった。確かそんな名前の映画が昔あった。ヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘプバーンが主演だった。
見直してみたがどうもピンとこない。湖の夕暮れのシーンが嫌に多い。
優しい妻との日常。娘のボーイフレンドの連れ子との触れ合い。娘との長年の確執。
しかし娘との確執と言う話は実に多い。父娘関係とはそういうものなのだろう。
黄昏はやがて暗闇となる。いい話になるはずがない。あらためて黄昏を見て、映画にすることの難しさを感じる。
この映画は老夫婦二人で、デッキから遠く湖に目をやるシーンで終わる。
東京物語にもラストシーンではないが、老夫婦二人で海を眺めるシーンがある。
人生黄昏時は遠くを眺める姿が似合うようだ。
私も長椅子に横になりながら、遠く窓の外を見つめていることが多い。(了)
人生黄昏どき

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