蟹は甲羅に似せて穴を掘る

つぶやき

 今年も残り2週間を切った。
 大型スーパーも廃店となり、もともと寂しい我が町は、駅を背にして駅前商店街を眺めてみると、コンビニと葬儀社だけの町になってしまった。
歳末の気分を味わいたければ、下町とかそういうところに行かなければならなくなったようである。
 
 自民党安倍派のパーティ券収入のキックバックは裏金還流というらしい。
 地検の聴取が始まったというが、大した事件にはならないのではないだろうか。
辞任した松野官房長官も、ひと頃のうつろな顔からいつもの顔に戻ったような気がする。
 買収でも贈収賄でもない。検察は本気で捜査するだろうか。
 受け取った金額の多寡によって立件が選択されるようなことであれば、捜査への不信も生まれる
 12月は赤穂浪士討ち入りの月である。検察も無事本懐をと思うが、どんなものであろうか。

 池田大作氏が亡くなられて1か月が過ぎたが、このごろになって関連記事を見かけなくなった。社会に大きな影響を与えた人である。語り継がれて当然と言えば当然の人である

 池田氏に対してはどうしても疑問が残る。「どうしてあれほどの宗教団体を作ることができたのだろうか」。

 池田氏が言ったことは、「皆さん幸せになりましょう」というだけのことである。
 幸せになる方法を語ったわけでもなく、自ら体現したわけでもない。
 しかしかつて「皆さん幸せになりましょう」と言った人は宗教家にも政治家にもいなかったように思う。

 不幸せな人にこの言葉は響く。会員は「池田先生が幸せになりましょうと言ってくれた」と涙を流すのである。
  この言葉で800万世帯の人が集まったことになる。そんな簡単なことではないかもしれないが、そういうことで人は集まってしまうものである。

 「幸せになりましょう」。これほど単純で力強く、希望に充ちた言葉はない。
 なんの根拠も説明もない「幸せになりましょう」という言葉に、会員たちはそれぞれ勝手に思い込みを膨らませていったのである。
 その思い込みこそが創価学会という宗教団体であったと思う。

 大事を成すには人が必要である。自分を通したい人に人は邪魔である。
 大事を成すには人が必要であるが、人は必ず不愉快なものである。そのため人とどう折り合いをつけていくかが大事を成す基本となる。

 社員30人ほどの建築会社を経営する社長さんのことであるが、彼は社員に対して全く無頓着である。客の社員に対する評判にも関心を持たない。社員を教育しようという考えもない。 

 一度忠告したことがあるが、それに対してこんなことを言う。社員を注意したら社員が育たない。社長たるもの社員に対して無頓着くらいでないと会社もうまくいかないし、自分の体ももたない。
 もっと上手なやり方があるかもしれないが、自分の理想を通すことより今の収入に満足することの方が大事である。彼の年収は3000万である。
 
 大事という割には小さな話になってしまったが、大事ということは天下を取るということだけではない。人を使うということでもある。
 私はこの社長さんのような考え方が持てなかったが、今となって、そうかそういう考え方もあるなと思うようになった。しかしそうすればよかったということではない。

 自分を通した人生であったことに満足しているが、人と交流のないことをときどき責められる。しかし人と交流しないことの気持ちよさに満足している。まだ多少若いということかもしれない。
 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という格言が思い浮かぶ師走半ばである。(了)

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